収録を経て、水江未来氏のキャリアは、日本のアニメーションで独自の立ち位置を確立したアーティストであり、その作品は物語に依存しない「ノンナラティブ」な表現が特徴であることを再認識した。彼の作品は、視覚と音楽の融合を通じて観客に新しい体験を提供し、国内外の映画祭で高く評価されている。本稿では、水江氏がどのようにしてこの独自のスタイルを確立したのか、その背景にある幼少期の映画体験や、デジタル技術に対する彼のアプローチに焦点を当て、彼の作品が持つ深い意味を探っていこうと思う。 アニメーションにおけるノンナラティブな表現とは? 水江未来氏の作品は、視覚的な抽象と実験性を追求したアニメーションとして、国際的な映画祭で高く評価されている。彼の作風は「ノンナラティブ」という言葉で形容されることが多いが、その真意を理解するには、彼自身の言葉と制作背景を探る必要がある。本稿では、彼のインタビューを基に、ノンナラティブ表現の意味と、その背景にある幼少期の映画体験、そして現代のアニメーションに対するアプローチや、新作アニメーションについて考察する。 まず、水江氏の作品が「ノンナラティブ」とされるのは、物語を主軸に置かない形式的な特質によるものである。彼自身は、物語を全く排除するわけではなく、むしろ物語性を異なる角度から捉えている。例えば、彼の作品は細胞や幾何学図形といった具象から抽象へと変化し、それを通じて観客に多様な解釈の余地を与える。これは、伝統的なナラティブ形式とは一線を画すものの、独自の物語的体験を提供するアプローチである。 興味深いのは、水江氏が幼少期に経験した映画体験が、現在の作風にどのように影響しているかという点である。彼は『ジュラシック・パーク』や『ターミネーター2』といったハリウッドの大作を、幼少期に映画館で体験している。これらの映画は、当時のCG技術の進化を象徴するものであり、彼にとっては、リアルとフィクションが交錯する異質な体験として記憶に残った。特に『ターミネーター2』に登場するT-1000の液体金属表現は、彼に強烈なインパクトを与え、後の作品における「異質」や「奇妙」を追求する動機の一つとなった。 また、水江氏の作品におけるデジタル技術へのアプローチも注目に値する。彼は決してアナログ至上主義ではなく、デジタル技術を積極的に取り入れて映像表現における「奇妙さ」や「異質感」を追求している点が印象的である。彼がこれらのツールを使う理由は、観客に強烈な視覚体験を提供するためであり、その背景には、幼少期に培った「映像への驚き」がある。 一方で、水江氏は映画館というアナログ的な体験への憧憬も持ち続けている。彼の長編アニメーション『ETERNITY』では、20分という尺の中で、観客を「ライド型」の視覚体験に引き込むことを目指している。これは、映画館で映画を観るという体験自体を、物語の一部として捉える彼の姿勢を反映している。彼が語るように、映画が終わった瞬間に「自分が映画館にいたことに気づく」という感覚は、映画の持つ没入感と現実感の融合を象徴している。 総じて、水江氏の作品は、ノンナラティブな形式の中で、物語を超えた体験を提供するものである。その背景には、幼少期に体験した映画の記憶と、現代のデジタル技術への適応が深く関わっている。彼の作品は、観客に視覚的な驚きと、異質な感覚を提供し続けるだろう。これこそが、彼のアニメーションの最大の魅力であり、今後もその進化が期待される。 「水江西遊記(仮)」について 改めて語り直すが、水江未来氏は日本のアニメーションにおいて特異な存在感を放つアーティストである。彼の作品は、一般的な物語を追うタイプのアニメーションとは一線を画し、ノンナラティブ(非物語的)かつノンバーバル(非言語的)な表現を追求している。これらの要素を通じて、彼は視覚と音楽の融合による感覚的体験を提供し、観客の内面に深く訴えかける作品を生み出している。 水江氏の代表作の一つである『WONDER』は、ベルリン国際映画祭でのワールドプレミア上映を果たし、アヌシー国際アニメーション映画祭で「CANAL+Creative Aid賞」を受賞した作品である。この作品は、視覚的に変容する色彩と形態、そしてPASCALSによる音楽が融合し、多幸感をもたらす6分間のアニメーションだ。この作品を見たベルリンの女性から「明日からはカラフルな服を着て、自分の人生にWONDERを取り入れてみようと思った」という感想が伝えられたエピソードが語られている。このエピソードは、水江氏がノンナラティブ・ノンバーバルな表現の持つ力を再認識した瞬間であり、その後の制作方針に大きな影響を与えたという。 言葉は時に誤解を生み出す。特に同じ言語を共有していても、世代や経験によってその意味は異なる。水江氏は、言語を使ったコミュニケーションの曖昧さを感じ、それがノンバーバルな表現の価値を一層際立たせると考えているかも知れないと筆者は考察する。例えば『WONDER』が視覚と音楽の体験を通じて観客に自発的な思考や行動を促すことができるように、ノンバーバルな表現は観客に「自らの内側から何かを考えさせる」力を持っている。 こうした水江氏の作品は、視覚的な刺激を提供するだけでなく、観客自身の内的な世界に変化をもたらす力を持つ。ノンナラティブ、ノンバーバルな表現は、解釈の幅を狭めることなく、観客が自由に解釈し、感受性を働かせる余地を提供する。そのため、言葉に頼らない抽象的な表現が、観客の内面的な変容を引き起こす可能性があるのだ。 さらに、水江氏が現在取り組んでいる長編アニメーション『水江西遊記(仮)』は、これまでの彼の短編作品とは異なる挑戦である。西遊記という古典的な物語をSF的に再解釈し、複数の視点やマルチバース的な要素を取り入れた作品になることが予想される。このプロジェクトは、仏教的なモチーフや宗教的な視点を含みながらも、最終的にはそれらに収まらない独自の答えを模索するものになるだろう。彼が描くこの物語は、人間がどのように生きるべきか、世界をどう捉えるべきかといった深遠なテーマに迫るものであり、そのアプローチには抽象アニメーションの手法が大きく関わることになるだろう。 水江氏の作品は、観客に対して一方的にメッセージを伝えるのではなく、むしろ観客が自身の内面と向き合い、自由な解釈を促すことで、深い共感や感動を引き出す。ノンナラティブでノンバーバルなアプローチは、観客の感受性に直接訴えかけ、言葉を超えたコミュニケーションを可能にするのである。 彼の次なる挑戦である『水江西遊記(仮)』が、どのような形で観客に新たな視点や体験を提供するのか、そしてどのように彼の独自の表現が進化していくのか、非常に楽しみである。彼の作品が持つ力は、今後も多くの観客に影響を与え続けるだろう。 アニメが横断し始めて、混沌としているが刺激的である 水江氏の作品は、一見すると難解で抽象的な映像が続くが、その中には深いテーマが隠されている。彼の作品における「生と死」というテーマは、特に興味深い。彼はインタビューで「生と死が複雑に拡大や増長している感覚」を表現していると語っており、その感覚は彼自身の人生経験や、子供時代に触れた科学雑誌からの影響が大きいという。彼は科学的な視点から「無」と「有」を捉え、生きていることそのものが不思議な状態であるという感覚を持っている。この感覚は、彼の作品の中でしばしば視覚的に表現されており、見る者に「生命の儚さ」と「存在の神秘」を強く感じさせる。 前述した長編アニメーション『水江西遊記(仮)』は、その表現の集大成とも言える作品である。この作品には、多くのキャラクターが登場し、それぞれが独自の個性と背景を持っていると予想される。彼のキャラクターデザインは彼が制作したミュージックビデオなどで既に見られるように、どのキャラクターも非常に個性的で魅力的である。彼が『スターウォーズ』や『ネバーエンディング・ストーリー』から影響を受けていると語るように、彼の作品には多くのキャラクターが登場し、それぞれが物語の中で重要な役割を果たすだろう。 また、水江氏は、アニメーション業界全体が「混沌とした時代」に突入していると感じている。商業スタジオとインディペンデント作家の境界が次第に曖昧になり、新しい表現方法や技術が次々と登場する中で、彼はその変化を楽しみながら作品を作り続けている。このような時代背景の中で、水江氏はアニメーションという表現の可能性を広げるべく、積極的に新しい挑戦を続けているのである。 水江未来氏のこれからの作品に期待が寄せられると同時に、彼のアニメーションがどのように「生と死」や「存在の神秘」を表現し続けるのか、その進化を見守りたい。彼の作品は、単なるエンターテイメントを超えた深いメッセージを持っており、そのメッセージがどのように伝えられるのか、今後も非常に興味深い。 (執筆:迫田祐樹)
Momo Crash / Thighs Crash
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作品を出すことは「呪い」 クリエイター・toubou.が『さざ波の少女たち』で描く“こだわり”と“情念”【後編】
自身の作品にこだわりを持つ若手クリエイターtoubou.(相馬路子)さんとスクーターフィルムズが出会ったことで生まれた短編アニメ映画『さざ波の少女たち』。 業界の実績的には全く未知数のコンビながら、クロアチアの「ザグレブ国際アニメーション映画祭」で上映されるなど既に世界的に注目を集めています。 インタビュー後編では作品制作におけるこだわりや、創作を「呪い」と捉える独特な価値観を語ってもらいました。 インタヴュアー:たろちん1985年生まれ。本名・大井正太郎。 2008年、ニコニコ動画で「たろちん」としてゲーム実況を開始。Webニュースサイト「ねとらぼ」のライター・編集者を経て、現在フリー。お酒をこよなく愛する人間だったが、2022年に「重症急性膵炎」という大病を患い膵臓の3分の2が壊死する。現在は生涯禁酒の身。 作品を完成させるコツは「気合い」 クリエイターの“意地”によって生まれる信頼関係 ――toubou.さんの才能と熱意に惹かれてスクーターフィルムズとのチームが結成されたわけですが、短編アニメ映画『さざ波の少女たち』が生まれるまでにはどんな経緯があったんでしょう? 芦塚:「まずは短編で」というのは自然に決まりましたね。 toubou.:そうですね。私の力量的にもぽっと出の素人がいきなり2時間の映画を作れるとは思ってなかったので、現実的なゴールとしてまずは短編を完成させようと。 ――作業的にはどんなところから? 芦塚:最初は迫田さんがtoubou.さんにヒアリングをしながら脚本を整理していきました。「この部分が起承転結だね」とか映像化するにあたってのセオリーなどを話しながら脚本を掘り下げていって、キャラ設定などが出来上がっていった感じです。 原田:「ストーリーは欲しいよね」という話は結構しました。卒制で作った予告編はtoubou.さんのイマジネーションの湧く部分を選んで絵にして繋いでいく、という発想だったと思うんですが、短編とはいえ映画にする以上は物語の構成がしっかりないと観客には届けられないよね、と。そこは丁寧にやっていきました。 ――toubou.さんとしては初めてチームを率いる監督という立場を担ったわけですが、そのあたりの苦労などはありましたか? toubou.:私がVコンを毎日ちょっとずつ作って皆さんに投げて、という作業をしていた時期なんですけど、その時は私がこの作品の答えを全て握っている状態じゃないですか。自分しか持っていない答えをどうやって人に伝えようっていうのはずっと悩んでいました。 作画の打ち合わせでも、私の作品なのに私が説明できないことがあったら作業者さんにとても迷惑になるなとか。毎回会議が終わってから1人で反省会をして落ち込んでました。 ――それはまさにチームで動く監督ならではの悩みですね……。 toubou.:卒制だと私が締め切りに間に合えばいいので、究極やっつけでもどうにかなるんです。でもチームで作るとなると、私が答えを出さないと動けない時間が増える人がいる。そういう自分が見えていないところまで想像することの難しさをすごく感じました。 ――しかもいきなり「監督」ですもんね。 toubou.:そうですね。ましてや私は今までアニメを作っていたわけでもない、突然やってきた素人なので、「その差は私が埋めるしかない!」と思って必死にやってました。 1度途中でパンクしそうになった時、迫田さんに「あなたが答えを出さないと進まないよ」ということを言われて。私としては目の覚めるビンタをくらったような気持ちですごく響いたのを覚えています。 ――その辺りは経験のあるスクーターフィルムズの皆さんが導いてくれたという感じなんですね。 芦塚:迫田さんが要所要所でスパルタでしたね。「まだこんなにあるよ。どうするの?」って。 toubou.:私も「ここまでやったのに全部おじゃんになったらどうしよう」という恐怖がありました。あと、個人的に何か指摘されたら次はめちゃくちゃそれが改善されてるくらい行動で示したいという負けず嫌いな部分もあって。 ――結果を出せばぐうの根も出ないだろうと。 芸大に行くときも親に「どうせ受験に落ちるだろう」と思われていたので合格して入学させるしかないって状況を作ったし、大学で「絵を仕事にするなんてできるの?」と言われたときも「もう仕事でお金をもらってます!」って言えるようにしました。それは自分がやるしかない部分。だから「作品を完成させるコツは?」って聞かれたら「気合いです」って答えます(笑)。 ――なるほど(笑)。一番強いやり方というか、クリエイターに必要な気質ってそういうところなのかなとも思いますね。 原田:本当にその通りで、我々もその意地があったから信頼できたんです。やっぱり映画1本作るのってめちゃめちゃ大変なことなので。負けず嫌いっておっしゃいましたけど、こちらも死ぬ気で描いてくれてるなと思いました。でなければ全ての背景を1人で描くなんてできませんから。 ――それをやりきったことで両者の信頼関係もより強固なものになったと。そのほか、制作中に印象に残ってることはありますか? 芦塚:実は今回、制作段階ではtoubou.さんの声でセリフを当てたVコンを作ってもらったんです。そしたらtoubou.さんの声がぴったりすぎて。 ――へー、監督自ら仮のセリフを入れたんですね。 toubou.:私は何度も嫌だと言ったんですよ(笑)。本当に無理難題を言うなあと……。 芦塚:でも音響監督もすごく褒めていました。「toubou.さんの声が正解だから声優が声を当てるとむしろ違和感が出ると思う。その違和感をなくすために頑張ります!」って言ってたくらいです。 ――自分ではやらないようなことをやるというのもチームで制作するからこそという感じがしますね。 toubou.:確かにスクーターフィルムズの皆さんと作っていく中で、自分の作品なのに自分の気付かなかった部分の解像度が上がっていくというのはすごく感じました。私の中では有馬遥というキャラクターは純粋無垢なかわいい女の子を描いたつもりだったんですけど、芦塚さんに「遥って実はあんまり性格よくないよね」って言われて、あっそうじゃなかったんだ、みたいな。 寅谷倫のほうも最初は淡々としたクール系な女の子をイメージしていたんですけど、作品を作っていく中でどんどん人間味のあるエネルギッシュな子になっていって。それは自分1人で作っていたら絶対にそうはならなかったので嬉しい誤算でしたね。 ――そのあたりのやりとりというか、制作は基本的にリモートで行われたんですか? 芦塚:そうですね、toubou.さんは青森の自宅から定期的にオンラインで会議に参加して。うちのアニメーターも引っ込み思案な子が多くて、最初は作画打ち合わせでもカメラもマイクもオフ、みたいなことが多くてtoubou.さんもちょっとアウェイ感を感じてしまってたんじゃないかと思うんです。 それで一時期、打ち合わせを「MetaLife」という仮想オフィスでやったことがありました。ドット絵のアバターがWeb上の会議室に集まって通話するというものなんですけど、それだと人見知りな子たちでもなんとなくお互いのキャラクターが伝わるのか結構喋るようになってくれて。 ――なるほど、アニメ制作ってそういう部分にも工夫があるんですね……。 原田:引っ込み思案が多いから工夫したというのはスクーターフィルムズの特殊事例かもしれません(笑)。 toubou.:でも私もスクーターフィルムズに所属してやれることや考えることが増えたし、1人じゃない心強さというのは本当にあって。こうして青森にいながらでも楽しさや充実感を味わえていて大変ありがたいです。 シネスコという画角へのこだわり 「鑑賞物として見てほしい」 ――そういえば『さざ波の少女たち』は本編だけでなく卒業制作の「予告編」のときからシネスコで作られていましたが、あれはtoubou.さんのこだわりですか? toubou.:卒制は最初、普通に16:9で作ってたんですけど、私の背景が映えるのはシネスコだなと思ったんです。 ――YouTubeであんなに横長の画角の動画を観るのが珍しいなと思って印象に残りました。 toubou.:16:9の画角ってよくも悪くも既視感がすごいんですよ。「鑑賞物を見ている」という感覚を出したかったので、あまりなじみのないシネスコの画角にしました。そのほうが没入感はなくなると思うんですが、自分と鑑賞物という隔たりを感じて欲しいなと。 ――なるほど、最初からそういう哲学があるところがまさに「やりたいことが定まっている」というところなんでしょうね。 原田:シネスコは横に広すぎて構図を作るのが難しいから嫌われるほうの画角だとは思うんです。それを絵としてちゃんと成立させているのはむしろ特徴になるのかなと思いました。 あと没入感という話が出ましたが、今後「Apple Vision