「2024上半期KPOP事件白書 Part1 -HYBE VS ミン•ヒジン編- 」Monthly KPOP Chit-chat Season2 #01

2024.09.08 みなさん、お久しぶりです。 『Monthly KPOP Chit-chat』がシーズン2となって帰って参りました。 さて、記念すべきカムバック第一弾は今年上半期のKPOP事件についてあれやこれや語っていこうかと思います。 まず、今年のKPOPを語る上で外せない話題と言えば『HYBE VS ミン•ヒジン』の泥沼社内闘争になるだろう。 ご存じない方のために何があったのかを以下にざっくり説明すると、 4月22日。 BTSの爆発的人気により名実ともにKPOP最大の芸能事務所へと成長したHYBEが、HYBE LABELS傘下のADOR代表でありNewJeansプロデューサーであるミン•ヒジン氏を背任行為(経営権奪取を試みた疑い)により辞任要求。 4月23日。 ミン•ヒジン氏、経営権奪取を試みたというHYBEの主張を全面的に否定。 4月25日。 HYBE側がミン•ヒジン氏とADOR経営陣に対し背任行為の疑いで警察に告訴状提出。 同日 ミン•ヒジン氏、弁護士を同席させ緊急記者会見を開く。 とまぁここまで書いて既に泥沼なのだがこの記者会見が更なる泥沼へと発展させる原因となる。 この時のミン•ヒジン氏の主張はこうだ。 細かく言えば他にも様々な主張をしていたし、会見後半にはHYBE会長であるパン•シヒョク氏とのカカオトークでのやりとりをスクショありで暴露し、如何に自分が虐げられているかを早口で捲し立て、放送禁止用語連発でHYBE経営陣を罵倒しまくった。 そしてこの記者会見をきっかけに世論が一気にミン•ヒジン氏側に傾く事となった。 会見で身に纏っていたドジャースのキャップと緑と白のボーダーのロンTは韓国国内のオンラインショップで売り切れが続出し、早口での罵詈雑言の嵐は「ミン•ヒジンという新人ラッパーのデビューショーケース」と好意的に捉える層も一定数現れ、韓国のエミネムと呼ばれネットミーム化するほどの人気となった。 このようになった要因には韓国の日本以上に根深い男尊女卑社会が影響していると著者は考えている。 HYBEという巨大企業の男性経営陣に、立場の弱い子会社の女性社長が圧力に屈せず権力に立ち向かうという構図が韓国ドラマさながら、一般の韓国国民の感情を揺さぶったのだ。 ただ、この会見で名前を出されたLE SSERAFIMとILLITはこの日を境に大量のアンチを生み出し、両グループのYouTubeのコメント欄には連日止むことのない誹謗中傷が並ぶ事になった。 これはNewJeansに対してもそうで、ミン•ヒジンアンチからはNewJeansがヘイトを向けられる形となってしまった。 著者はあくまでも中立でHYBEにもミン•ヒジン氏にも肩入れしている訳ではないが、大人のいざこざに、ただアイドルとして日々頑張っている彼女たちを巻き込んでしまったミン•ヒジン氏の罪は重いと思う。 NewJeansをここまでワールドクラスのアーティストにした手腕は認める。 が、それにはHYBEの資金力があってこそだとも思うし、他にも尽力したスタッフがいたからこそ成し得た成果であるとも思うし、あたかも自分一人の力でNewJeansを成功に導いたかのような言説はあまりにも自己中心的な主張のようにも感じる部分がある。 それにILLITがNewJeansのコピーであるという主張は同じエンタメの仕事をしている人間からしてみるとあまりにも寂しく感じる。 確かに似ている部分はあると思う。ただ、それはエンタメの常でありヒット作に倣うのは決して罪だとは思わない。 それは音楽だけでは無く、映画だって漫画だってあらゆるジャンルで起きている事だし、自分が作ったものと似たようなものを作ったものが現れたのなら、さらに良いものを作り唯一無二のものにしていけばいいだけなのだ。 そうやってエンタメの歴史は切磋琢磨して今日に至ると思っている。 タイムリープものが流行ればタイムリープものの漫画や映画で溢れ、メタバースものが流行ればメタバースものの漫画や映画で溢れ、ガールクラッシュが流行ればガールクラッシュコンセプトのKPOPグループで溢れ、Y2Kが流行ればY2KコンセプトのKPOPグループで溢れる。 でもそこで何を取捨選択するかを決めるのは消費者なのだ。 良いものは自ずと残るし、良くないものは淘汰され消えていく。 個人的に思うのはミン•ヒジン氏にはILLITの登場を機にさらにNewJeansを飛躍させてやるとHYBEへの憎たらしさをパワーに変えてほしかったなと思う。 ただ、HYBE社内で何が起きていたのかは我々部外者には分かり得ない事ではあるので、ミン•ヒジン氏がHYBE経営陣から虐げられていたと感じたのであればそれは事実なのだとは思う。 いじめてる側がどんなにいじめてないと言ってもいじめられた側がいじめられたと思えばそれはいじめであるように、HYBE経営陣に問題があったのは否めない。 そして、この社内闘争は現在進行形で続いており、先日(8月27日)ミン•ヒジン氏がHYBEによりADOR代表を解任させられた。 これに対しミン•ヒジン氏は一方的な解任で違法な決定と猛反発している。 まだまだ終わりそうにないこの社内闘争が一体どんな結末を迎えるのか。 それはKPOPの神のみぞ知る事なのかも知れない。 この問題以外にもまだまだ書きたい出来事があったのだが、『HYBE VS ミン•ヒジン』事件で丸々コラム1本分消化してしまったので残りはPart2へと続く…。 了

水江未来の旅 編集後記

収録を経て、水江未来氏のキャリアは、日本のアニメーションで独自の立ち位置を確立したアーティストであり、その作品は物語に依存しない「ノンナラティブ」な表現が特徴であることを再認識した。彼の作品は、視覚と音楽の融合を通じて観客に新しい体験を提供し、国内外の映画祭で高く評価されている。本稿では、水江氏がどのようにしてこの独自のスタイルを確立したのか、その背景にある幼少期の映画体験や、デジタル技術に対する彼のアプローチに焦点を当て、彼の作品が持つ深い意味を探っていこうと思う。 アニメーションにおけるノンナラティブな表現とは? 水江未来氏の作品は、視覚的な抽象と実験性を追求したアニメーションとして、国際的な映画祭で高く評価されている。彼の作風は「ノンナラティブ」という言葉で形容されることが多いが、その真意を理解するには、彼自身の言葉と制作背景を探る必要がある。本稿では、彼のインタビューを基に、ノンナラティブ表現の意味と、その背景にある幼少期の映画体験、そして現代のアニメーションに対するアプローチや、新作アニメーションについて考察する。 まず、水江氏の作品が「ノンナラティブ」とされるのは、物語を主軸に置かない形式的な特質によるものである。彼自身は、物語を全く排除するわけではなく、むしろ物語性を異なる角度から捉えている。例えば、彼の作品は細胞や幾何学図形といった具象から抽象へと変化し、それを通じて観客に多様な解釈の余地を与える。これは、伝統的なナラティブ形式とは一線を画すものの、独自の物語的体験を提供するアプローチである。 興味深いのは、水江氏が幼少期に経験した映画体験が、現在の作風にどのように影響しているかという点である。彼は『ジュラシック・パーク』や『ターミネーター2』といったハリウッドの大作を、幼少期に映画館で体験している。これらの映画は、当時のCG技術の進化を象徴するものであり、彼にとっては、リアルとフィクションが交錯する異質な体験として記憶に残った。特に『ターミネーター2』に登場するT-1000の液体金属表現は、彼に強烈なインパクトを与え、後の作品における「異質」や「奇妙」を追求する動機の一つとなった。 また、水江氏の作品におけるデジタル技術へのアプローチも注目に値する。彼は決してアナログ至上主義ではなく、デジタル技術を積極的に取り入れて映像表現における「奇妙さ」や「異質感」を追求している点が印象的である。彼がこれらのツールを使う理由は、観客に強烈な視覚体験を提供するためであり、その背景には、幼少期に培った「映像への驚き」がある。 一方で、水江氏は映画館というアナログ的な体験への憧憬も持ち続けている。彼の長編アニメーション『ETERNITY』では、20分という尺の中で、観客を「ライド型」の視覚体験に引き込むことを目指している。これは、映画館で映画を観るという体験自体を、物語の一部として捉える彼の姿勢を反映している。彼が語るように、映画が終わった瞬間に「自分が映画館にいたことに気づく」という感覚は、映画の持つ没入感と現実感の融合を象徴している。 総じて、水江氏の作品は、ノンナラティブな形式の中で、物語を超えた体験を提供するものである。その背景には、幼少期に体験した映画の記憶と、現代のデジタル技術への適応が深く関わっている。彼の作品は、観客に視覚的な驚きと、異質な感覚を提供し続けるだろう。これこそが、彼のアニメーションの最大の魅力であり、今後もその進化が期待される。 「水江西遊記(仮)」について 改めて語り直すが、水江未来氏は日本のアニメーションにおいて特異な存在感を放つアーティストである。彼の作品は、一般的な物語を追うタイプのアニメーションとは一線を画し、ノンナラティブ(非物語的)かつノンバーバル(非言語的)な表現を追求している。これらの要素を通じて、彼は視覚と音楽の融合による感覚的体験を提供し、観客の内面に深く訴えかける作品を生み出している。 水江氏の代表作の一つである『WONDER』は、ベルリン国際映画祭でのワールドプレミア上映を果たし、アヌシー国際アニメーション映画祭で「CANAL+Creative Aid賞」を受賞した作品である。この作品は、視覚的に変容する色彩と形態、そしてPASCALSによる音楽が融合し、多幸感をもたらす6分間のアニメーションだ。この作品を見たベルリンの女性から「明日からはカラフルな服を着て、自分の人生にWONDERを取り入れてみようと思った」という感想が伝えられたエピソードが語られている。このエピソードは、水江氏がノンナラティブ・ノンバーバルな表現の持つ力を再認識した瞬間であり、その後の制作方針に大きな影響を与えたという。 言葉は時に誤解を生み出す。特に同じ言語を共有していても、世代や経験によってその意味は異なる。水江氏は、言語を使ったコミュニケーションの曖昧さを感じ、それがノンバーバルな表現の価値を一層際立たせると考えているかも知れないと筆者は考察する。例えば『WONDER』が視覚と音楽の体験を通じて観客に自発的な思考や行動を促すことができるように、ノンバーバルな表現は観客に「自らの内側から何かを考えさせる」力を持っている。 こうした水江氏の作品は、視覚的な刺激を提供するだけでなく、観客自身の内的な世界に変化をもたらす力を持つ。ノンナラティブ、ノンバーバルな表現は、解釈の幅を狭めることなく、観客が自由に解釈し、感受性を働かせる余地を提供する。そのため、言葉に頼らない抽象的な表現が、観客の内面的な変容を引き起こす可能性があるのだ。 さらに、水江氏が現在取り組んでいる長編アニメーション『水江西遊記(仮)』は、これまでの彼の短編作品とは異なる挑戦である。西遊記という古典的な物語をSF的に再解釈し、複数の視点やマルチバース的な要素を取り入れた作品になることが予想される。このプロジェクトは、仏教的なモチーフや宗教的な視点を含みながらも、最終的にはそれらに収まらない独自の答えを模索するものになるだろう。彼が描くこの物語は、人間がどのように生きるべきか、世界をどう捉えるべきかといった深遠なテーマに迫るものであり、そのアプローチには抽象アニメーションの手法が大きく関わることになるだろう。 水江氏の作品は、観客に対して一方的にメッセージを伝えるのではなく、むしろ観客が自身の内面と向き合い、自由な解釈を促すことで、深い共感や感動を引き出す。ノンナラティブでノンバーバルなアプローチは、観客の感受性に直接訴えかけ、言葉を超えたコミュニケーションを可能にするのである。 彼の次なる挑戦である『水江西遊記(仮)』が、どのような形で観客に新たな視点や体験を提供するのか、そしてどのように彼の独自の表現が進化していくのか、非常に楽しみである。彼の作品が持つ力は、今後も多くの観客に影響を与え続けるだろう。 アニメが横断し始めて、混沌としているが刺激的である 水江氏の作品は、一見すると難解で抽象的な映像が続くが、その中には深いテーマが隠されている。彼の作品における「生と死」というテーマは、特に興味深い。彼はインタビューで「生と死が複雑に拡大や増長している感覚」を表現していると語っており、その感覚は彼自身の人生経験や、子供時代に触れた科学雑誌からの影響が大きいという。彼は科学的な視点から「無」と「有」を捉え、生きていることそのものが不思議な状態であるという感覚を持っている。この感覚は、彼の作品の中でしばしば視覚的に表現されており、見る者に「生命の儚さ」と「存在の神秘」を強く感じさせる。 前述した長編アニメーション『水江西遊記(仮)』は、その表現の集大成とも言える作品である。この作品には、多くのキャラクターが登場し、それぞれが独自の個性と背景を持っていると予想される。彼のキャラクターデザインは彼が制作したミュージックビデオなどで既に見られるように、どのキャラクターも非常に個性的で魅力的である。彼が『スターウォーズ』や『ネバーエンディング・ストーリー』から影響を受けていると語るように、彼の作品には多くのキャラクターが登場し、それぞれが物語の中で重要な役割を果たすだろう。 また、水江氏は、アニメーション業界全体が「混沌とした時代」に突入していると感じている。商業スタジオとインディペンデント作家の境界が次第に曖昧になり、新しい表現方法や技術が次々と登場する中で、彼はその変化を楽しみながら作品を作り続けている。このような時代背景の中で、水江氏はアニメーションという表現の可能性を広げるべく、積極的に新しい挑戦を続けているのである。 水江未来氏のこれからの作品に期待が寄せられると同時に、彼のアニメーションがどのように「生と死」や「存在の神秘」を表現し続けるのか、その進化を見守りたい。彼の作品は、単なるエンターテイメントを超えた深いメッセージを持っており、そのメッセージがどのように伝えられるのか、今後も非常に興味深い。 (執筆:迫田祐樹)

「鉄道模型と精密」 そのうちコマ撮りアニメに横すべりするはずの模型のはなし #02

鉄道模型の話の続きです。 前回は、HOゲージとかOゲージとか、はてはGゲージだとか(庵野さんの記事で初めて知ったわけだが、)でかいサイズの模型の話がメインだったけど、それはインスタで流れてくる鉄道模型の動画が、なぜかアメリカの鉄道模型ファンの動画が多くて、すべからずでかいサイズの模型の話題だったからですね。 自分自身は実はでかいサイズの模型にそこまで心惹かれていたわけではない。 メルクリンのZゲージの蒸気機関車のびっくりするくらいの精巧さ そもそも私が初めて実物を見た鉄道模型は、HOゲージやOゲージではなく、日本標準のNゲージでもなく、なぜかドイツの老舗鉄道模型メーカー・メルクリンのZゲージの蒸気機関車で、それはもうほんとにびっくりするくらい小さくて精巧だった。で、メルクリンの鉄道模型って、金属キャスト部品を多用してるんですよ。Nゲージは割とプラスチック感が強い印象なのだけど(思い込みかもしれない。ごめんなさい。)、それとはちょっと方向性が違う。サイズが極端に小さいのでかなり省略・デフォルメはされてるのだけど、なぜか精密感がすごい。それと模型表面の印刷がすごく綺麗だなという印象。上に貼ったyoutubeにも出てくる小さな蒸気機関車の全長が3〜4センチくらい、細かな車体の側面の配管とかも再現されていて、密度感が心地よかった。金属キャストのずしりとした重さとひんやりとした手触りも良くて、ずっと手に取って見ていたい感じ。すごく憧れました。 問題は値段が高いこと。サイズが小さいから狭い面積でも大きな構図のレイアウトで線路も設計できるし大編成も作れるよ!みたいなコンセプトなのだろうとは思うけど、メルクリンはドイツのメーカーで舶来品、とても子供に手が出せるものじゃない。大編成など夢のまた夢で、ここでもまた「カタログを見続ける」日々が始まる。 それにしてもメルクリンのカタログは美しかった。製品も普段見慣れないヨーロッパの蒸気機関車とか山岳鉄道とか、見たことないディーゼル車とか、どれもこれも魅力的な形状と色彩。再現されているレイアウトの情景もヨーロッパの街並みだったりアルプスの山岳地帯だったりして、想像を大いにかき立てられる。あと、抽象モデルというか、例えば等高線に沿ってきれいに裁断された白いボードを積み重ねて丘陵地帯を表現した真っ白な情景模型とかも深く印象に残っている。こういう表現もありなんだ、という驚き。あと山岳地帯の架橋と、その下を流れる渓流を表現した情景では、ガチで水の表現をやっていて、模型でもここまでできるんだと驚いた。 もちろん、今思えば、当時の模型における「水」表現は、素材的な限界もあっただろうし、現在に比べるとかなり未熟だったと思うけど、それでも紙粘土や石膏で水面を作って着彩した「水面」に比べると、透明感のあるリアルな水面表現に成功している写真が掲載されていたような気がする。 そうした情景模型としての魅力もありつつ、やはり鉄道模型は機関車や車両の、モデルの緻密さに憧れた。 自宅には「鉄道模型趣味」というマニアックな雑誌がなぜか数冊あって、そこには国鉄の何年の何型の客車の制作、みたいな記事がふんだんに載っていて、車体をボール紙を重ねて構築し、真鍮線を曲げて手すりを作ったり、台車は既製品を改造して使うとか、そういう制作記事には、図面や部品の型紙まで載ってたような気がするんだけど(ノリは手芸雑誌に近い?)、その記事の写真がすごくカッコよく、作例は細部までびっくりするぐらい再現されていて工芸品のようでもあり、鉄道模型とはだから、私にとっては、凄腕のモデラーが手作りする奇跡の逸品みたいなものでもあった。 探してたら、まさにこんな感じ!という匠の方がいらしたので、貼っておきます。 この方は45分の1で制作されているそうですが、ざっくりOゲージ。やはり緻密に作り込むには物理的なサイズも必要になってくるのでしょう。こういう、わりとゴツめのサイズの方がやはり鉄道模型の花形みたい。実はメルクリン社も、メインストリームはOゲージ・HOゲージなどの大きめなラインナップのようです。 その対極にあるのがZゲージ、こっちはとにかく小さい。 鉄道模型はレールの幅(軌間、ゲージ)でサイズを表します。改めてざっとそれぞれの軌間(線路の幅ですね)を整理すると、Oゲージが32mm、HOが16mm、Nゲージは9mmで、Zゲージは6.5mmなのです。車両の幅は線路の幅よりも少し広いので、ざっと1センチに足りないくらいか。そのサイズなので、どうしても表現できることに物理的な限界がある。模型表現としては情報量を相当削ぎ落とす必要があるはずなんですね。上で紹介した工房の方も、だから45分の1サイズでやってるとおっしゃってます。だから軌間が6.5mmしかないZゲージはかなり表現を限定されていると思う。にもかかわらず、メルクリンのZゲージからは、めちゃくちゃ精密な印象を受ける。 エッジの処理、要所の作り込み(手すり、鋲、パイプ)、色や文字等の表現。そういう細部に神経を行き渡らせ、慎重に削ぎ落とす情報を決める。「完全に再現」することを目指すのではなく、適度に見る側に「想像」させ、見た時の「印象」を伝えるセンス。このあたりがうまくいっている模型は見てるだけで幸せな気分になる。 鉄道模型における「精密」とはなにか? そもそも、模型における「精密」ってなんですかね。何を表現すれば「精密」だと感じるのか。実物をコピーすれば精密なのか?厳密な意味で実物を完全にコピーすることは不可能だから、模型は実物を縮小して再現するときに、常に情報の取捨選択を迫られる。再現の度合いによって情報密度の濃淡が生まれる。模型に近づいて細部を見た時に、「ここまで再現してるんだ!」という驚きが精密模型の醍醐味である一方で、模型からちょっと離れて全体を見た時に、情報密度の濃淡が、実物(や、その写真)を見た時の印象と近いかどうかもすごく大切な気がする。のべつ緻密に作り込むよりも、その濃淡の印象を近づける。これはフォルムについても同様で、完全に設計図どおりに縮小しても、見た目の印象が同じになるとは限らない。基本的には実物に可能な限り忠実にするとしても、その縮尺で見た時の「印象」を近づけるために微調整が必要で、それが模型の出来不出来を左右するのではなかろうか。模型におけるリアリティの根っこはこのあたりにありそうだ。 これは他の表現にも同じことが言える気がする。緻密に描けば自動的にリアルになるわけではない。非常に省略してるのに説得力のある絵もあるし、めちゃくちゃ描き込んでいるのにリアリティを感じないこともある。ミリオタで有名な宮崎駿が月刊モデルグラフィックスで連載していた「宮崎駿の雑想ノート」には、たくさんの古い兵器の絵が登場する。どれもある種のデフォルメが効いていて、密度感のある描き込みがありつつ、精緻に描き込もうというよりかは、それぞれの兵器から宮崎駿が受けた「印象」を表現している気がする。もちろんこれはすでにスケールモデル的な精密さとは別の話になってきてるが、一見「実物そのまま」に作っているように見える模型も、ある種の省略の美学とデフォルメで構成されている表現なんじゃないかと思う。 だからか、皆がそれぞれに強い印象を持っているものは、再現が難しくなるのかもしれない。件の宮崎駿は映画「風立ちぬ」のときのインタビューで、「零戦だけは難しい」みたいなことを語っていた。(ように思う、、、うろ覚えですが、、)その文脈はどちらかというと美学的な繊細さについての話題だったように記憶しているけど、私は、皆がいろいろな写真や創作物で零戦を見すぎていて、それぞれに強い印象を持っている人が多いもんだから、何を描いても誰かにとって違うとか、あるいは航空機メーカーのご子息でもあった宮崎駿が零戦に持っている印象が、世間一般で流布している印象とちょっと違うのか、とか想像していました。実際私は、「風立ちぬ」の零戦は、ちょっとシュッとし過ぎていて繊細すぎて、あまり零戦に見えなかった。 このあたりの追求はいつも非常に難しいのだと思う。そんなことを考えながら、ついまた模型の動画を見て現実逃避してしまう。 補足的に。情景模型における水表現の話が出たので思い出したのだけど、深堀隆介さんという美術作家がおられます。 けっこう人気のあるアーティストだと思うのですが、透明の樹脂をお椀とかに流し込んで、そこに金魚の絵の、もっとも水底に近い部分を描いて、また樹脂流しこんで、また金魚のちょっと水面に近い部分の絵を描いて、というのを繰り返して、まるで水中にホンモノの金魚がいるみたいな美術作品を作られている。描くのは平面だけど、完成品は立体に見えるので、2.5Dっていう言い方をしてたりもするみたい。この方の作品を見ると、透明度の高い樹脂の登場が、造形における水表現を大きく広げたのがよくわかる。最近の情景模型における水表現も、概ねこれに似た手法で、情景の台座に透明樹脂を流し込んで固める。当然、水中も表現できるし、海面の泡立つ波なんかも、白い塗料を塗布して、風圧で塗料を吹き伸ばして再現するなど、繊細な進化を遂げていて、これまた作業動画をずっと見入ってしまう。 はらだ #01を読む