「呪具としての模型」 そのうちコマ撮りアニメに横すべりするはずの模型のはなし #04

模型が好き、ということを実はあまりこれまでおおっぴらに話すことは避けてきていた。 この連載の内容を考えたときも、やはりちょっと躊躇があった。模型を作る、と言うときに、それが単に模型を作るだけのホビーであると言い切れるのか、という問いかけが、常に頭の片隅に浮かんでしまうからだ。 プラモ屋にはガンダムと戦車と戦闘機と軍艦と鉄道があった 小学生の頃の話だが、近所の模型店で耳にした会話を、今でもはっきりと覚えている。 その時私は第二次世界大戦中のドイツ軍の戦車のプラモデルを探しに来ていた。探しにと言うか、見に来ていた。当時の私のお小遣いではタミヤのプラモはそんなに簡単に買えるものではないので、どちらかというと見に来ていた、と書くのが正しいのだ。 そのとき、店には何人かお客がいて(模型屋が普通に賑わっていた時代ではある!)ちょっと離れた場所で二人のおじさんが穏やかに話していた。一方のおじさんは「軍艦や戦車、戦闘機のプラモデルを作ることで、子供たちに戦争を肯定的に捉えるメンタリティが生まれてしまうのではないか」およそそんな内容の懸念を口にしていて、それに対してもう一方のおじさんが「まあまあ、プラモは単なるホビーなんだし、それはさすがに考えすぎだよ」と応えるような内容だった。模型屋にまでやってきてその二人がなんでそんな会話をしていたのか、どういう脈絡だったのかは今もって謎だが、とにかくその会話はくっきりと私の耳に残り、まさにその日、戦車のプラモを見に来ていた小学生の私は、その会話に妙な居心地の悪さを感じて、そっとその場を立ち去ったのだった。それにしてもプラモ屋にはガンダムと戦車と戦闘機と軍艦が並んでいた。あと鉄道と車とバイク。(今はフィギュアが多いよね。) そもそも模型文化が盛んな国を上げていくと、もともとは「帝国」なんてものを自認していた国々が多いみたい。例えばイギリスにおいて、鉄道模型や艦船模型が愛好されたのは、それらが誉高き大英帝国の力を象徴するアイテムだったからのように思える。かつて七つの海を支配したロイヤルネイビーの艦船を、精巧な模型として再現して愛でる — そこには単なるホビー以上の意味が込められているように思える。私の世代は、学生時代に「トレインスポッティング」を見てひゃっはーってなったりした年頃なんだけど、このいやというほど失われ果てた感じのイギリスが舞台の映画で、アル中の艦船プラモマニアの老人が出てこなかった?いやめっちゃ出てきた気がするんだけど、勘違いで全然別の映画かもしれない。とにかくアル中の老人が引きこもってぐちゃぐちゃの部屋でずっと軍艦のプラモ作ってるの。失われた栄光にすがって、自分の境遇を直視しない、痛々しい感じに見えたんだけど、これあまり人ごとに思えなかった。(うん、映画はトレスポじゃない気もする。ちょっと探してみたけど、ぜんぜんそのことに触れた情報が見つからないし。でもそれはそれとして久々に観てみたくなった。) まあ、模型にはそういう一面はあるよな気がするなぁ、と思いつつ、近年の韓国・中国の模型メーカーの躍進を見ると、かつての帝国への憧れがどうのという感慨は所詮ただの与太話のような気もしてくる。こと東アジアにおいては、「いや、なんか俺たち手先器用みたいなんすよ」くらいの方がしっくりくるのかもしれない。 そもそもこの手の問いかけは、プラモ界隈では常に非プラモの一部の人々から投げかけられる紋切り型の疑義であり、言われたくない「言いがかり」として扱われている問いでもあるだろう。その話題が出たら、もう話は終わりだ、そいつと話すことは何もない。単なる趣味なんだからそっとしておいてくれ、痛くもない腹を探られるなんてまっぴらだ。 そもそもプラモ好きは世の中でそこまで目立ってないし、街の模型屋さんは減る一方だし、むしろ絶滅危惧種じゃないかと。それはそうかもしれないと思いつつ、アンビルドの模型好きとしては、あの時の模型屋で聞いた会話は、いまだに抜けないトゲとして、どこかに刺さったままだ。 模型が教育の場でも重要な役割を果たしていたらしい、という話は、この件を考える上で無視できない。戦時中、日本の小学校(当時は国民学校ですかね、)では、木製の軍艦模型を作る授業が行われていたという。ほんとに?それで、専用の木製パーツをまとめた軍艦模型のキットが存在し、学校で一括購入していたという。委細うろ覚えなので申し訳ない限りなのだが、この話を聞いたときに思い出したのは、原爆と日本の戦争責任を正面から扱った漫画「はだしのゲン」の中で描かれる情景だ。そこでは、主人公のゲンが木製の軍艦模型を近所のおじさんからもらってくるのだが、ゲンの弟は空襲で崩れた家の下敷きになり、この模型を抱いて焼け死ぬ。この軍艦の模型に関する描写はけっこう重要なシーンなのだが、その背景に、学校で軍艦模型を作る、というような前提があったのかもしれない。ゲンもその弟も、そのよくできた軍艦模型をめちゃくちゃ欲しがるし、大喜びで遊ぶ。国民を総力戦遂行のために統合し、子供たち、とりわけ「男の子たち」を、まさに「かっこいい戦争」に「動員」していくシステムとしての軍艦の模型がそこにある。 全ての学校でやってたのか?とか、どの程度の履修率なのか?とか、どういう使い方(授業方法?)をしてたの?とか、疑問はいくらでも湧くけれど、模型を作るとき、手に取るときに、その人に湧き起こる感情というのは、「ホビーだよ」の一言で済ませられない何かがあって、だからこそそれを「教育」に利用しようという動きもあった、というのはそんなに外してない気がする。 ガンダムと戦時中の空想兵器 高校生の時にはガンダムを巡る議論にも遭遇した。「ガンダムは戦争を美化している!」と真っ向から批判する先輩の言葉は、高校生らしい正義感から来る極論の類ではあると思うのだが、当時すでに富野由悠季の反戦的な発言を聞きかじっていた私は先輩の論調に違和感を覚えつつも、メーカーがプラモデルを売るための宣伝アニメである、というロボットアニメの身も蓋も無い一面のことを思うと、戦闘シーンの魅力的な描写は確かに批判の対象となりうるとも思えた。よく言われることだが、ガンダムにおける空想兵器の開発体系(改造型とか旧型・新型はもちろん、陸専用とか水陸両用など、戦場によるバリエーション展開など)の豊富な設定資料を子どもたちが楽しむことと、戦中の子供達が、少年誌に掲載された空想超兵器の解説図解を楽しむことの間には少なからぬ類似性があるわけです。軍国少年が大喜びして眺めた空想兵器の図解は、そのまま戦後の子供雑誌が描く「未来都市の図解」につながるが、もう一つ直系の子孫がガンダムなどのロボットアニメの設定資料だったりする。 かく言う私もそういうある種のリアリティに満ち溢れた設定資料本は大好物だった。だから、戦中の少年誌に掲載された空想科学兵器の図解のことを聞くと、あー、その頃子供をやってたらやっぱり夢中になったかもなーとは思う。 別に軍艦や戦闘機のプラモを作ったからと言って軍国主義者になるわけじゃないが、模型が生み出す感情の中にしのんでいる何かしらの「種」がうっかり芽吹くようなことは未来永劫絶対に無い、とまでは言い切れないものは感じていた。やはり「かっこいい」戦闘機や戦車や軍艦のプラモ作るとなにかしら「盛り上がる」気持ちがあるのは、自分でもわかるもので。 おもちゃ遊びをする「偉い」人たち 映画化もされた三田紀房の漫画「アルキメデスの大戦」は、軍隊嫌いの天才数学青年が大和建造を止めようとして大和を設計しちゃったり、零戦を設計しちゃったりするトンデモかつ割と真面目な漫画なのだが、その中で海軍の「偉い」人たちがこれから建造する予定の軍艦の模型を並べて、きゃっきゃしながら「これがいい」「あれがいい」と言ってるのを、「おもちゃ遊び」と揶揄する発言がある。別のシーンでも、図上演習用に作られた小さな軍艦模型を見て、それを持ってやっぱりきゃっきゃする軍参謀たちが描かれる。これけっこうこの作品のテーマだとも思うんだけど、戦争は「おもちゃ遊び」と地続きな面を否定できないかもしれない。おもちゃ遊びの果てに殺したくも殺されたくもない。 ミニチュアはある意味で「神の視点」を楽しむものでもある。明治期にはすでに戦場のジオラマ再現と写真投影を組み合わせたパノラマが見せ物になっていたりしたようだが、それまで支配者が独占していた「神の視点」は大衆の時代においてしっかりとエンタメになっていく。見せ物のパノラマは、すぐに活動写真にとって変わられ、やがて特撮映画になっていくだろう。特撮映画が模型を駆使して作り出した、どこか素朴でぎこちない戦闘シーンは、今やCGによって圧倒的なリアリティを持って再現されるようになった。CGはある種、バーチャルな模型のようでもある。そして映画が語るドラマとは切り離して、再現された兵器が画面内いっぱいに映る戦闘シーンを楽しむ。その精緻で魅力的な映像は、戦時中に多くつくられた戦意高揚の宣伝映画と同様、兵器が「一番カッコよく見える」映像だったりもする。 呪具としての模型 模型はある意味で呪具なのかもしれない。それは鎮魂の器となったり、恨みの連鎖を宿したり、あるいは時として力への際限のない憧憬を育んだりする。模型自体は、何か根源的な生命力というか、呪詛の力というか、そんなものを呼び覚まし増幅する不思議な力を持っているようだ。 小学生の頃に感じた居心地の悪さは、実はこの解決し難い両義性を呼び覚ます、模型の本源的な性質への直感だったのかもしれない。 そしてそれは今も続いている。 はらだ

「艦船模型と’解像感’」 そのうちコマ撮りアニメに横すべりするはずの模型のはなし #03

前回は模型におけるリアルはある種のデフォルメなんじゃない?というような話をしてきましたが、この辺りは模型作ってるひとたちからすると「あたりまえ」でしかないかもしれませんね。どこまで細かく作るか、というのは、これ以上はやらない(やれない)ということと表裏です。そこには常に判断がある。それが模型のセンスだったりすると思うのです。「雰囲気でディティールアップ」という言い方もよく見かけます。考証的にどうこうよりも、雰囲気重視で細かさを足す感じでしょう。このあたりもうまく嘘をついてリアリティを演出する話で、絵描きとも近い発想かもしれません。 さて、模型にする対象が巨大な構造物であればあるほど、スケールダウンする幅が大きいので、「どこまで細かくするか」の判断がより際立って重要になります。 例えば一般的な自動車の模型だと、24分の1とか48分の1、戦車だと35分の1とか72分の1、飛行機でも24分の1から72分の1、そう考えると鉄道のNゲージで150分の1というのは、相当縮尺が小さい部類ですね。 ところが船の場合はさらに小さくなる。例えば全長350mの船を24分の1の縮尺で作ろうとしたら、全長14.3mで、ちょっとしたボートくらいのサイズになってしまう。それはさすがに無茶なので、艦船模型の主流は700分の1とか350分の1みたいです。350分の1だと、350mの船が1mの模型になる。これは家に飾るにはちょっと大きいですが、立派には見える。700分の1でやっと50センチ。このあたりが現実的でしょうか。 ちなみに、アメリカの最大の航空母艦がだいたい330mくらい、世界最大のタンカーで460mくらいらしく、このあたりが最大値だとすると、その他の船は、当然それよりは小さい。700分の1の縮尺であれば、概ね50センチ以内のサイズになるわけです。というわけで、艦船模型では複数のメーカーが横断的に「700分の1で作っていきましょう」みたいな取り決めをしてたくさんのキットを出してます。(ウオーターラインシリーズ、喫水線より上、つまり水上部分のみをキット化していくシリーズです。) で、700分の1ってどんなサイズかというと、 身長180センチのちょっと大きめのガタイの人が、2.5mmくらいの身長になるサイズですね。小さい。小さいけど見えないほどではない。350分の1だと5mmになりますから、その場合は人は米粒サイズですね。これだとちょっと人のディティールが見えてくるかな。このあたりのサイズの話を執拗にするのは、後で艦船模型のディティールアップに関する話をする布石なのでご了承ください。 子供の頃、艦船模型もたくさん作りました。私がそこそこたくさん作ったのは700分の1の軍艦。概ね旧海軍の軍艦ですね。当時は現代の艦船のキットはあまり出てなくて、旧軍時代の軍艦が主流でした。(このあたりのプラモデルと旧帝国時代の軍事アイテムの相性の良さ、というか、そもそもナショナリズム教育と兵器と模型の関係みたいな話は別途やります。) ご多分に漏れず、有名艦は作りましたよ。大和とか赤城とか、そういうやつです。あと、地元の山の名前になってる摩耶も作りました。(摩耶は、「火垂るの墓」の兄妹のお父さんが乗艦していた設定の巡洋艦ですね、確か。庵野秀明が詳細に描き過ぎたのを、高畑勲が撮影で黒く潰しちゃったってやつです。) フォルムで言うと、大きな大砲を積んでる戦艦の類は、子供にもわかりやすいんですよ。子供としては、先に宇宙戦艦ヤマトを見てるし。難しいのは空母で、艦の上面は飛行甲板でまあ平らな板ですよね。で、それをなんやかんやで支えているわけですが、なんかよくわからなくなるんですよね、構造とか。その板の下はどうなってるのかな、とか。700分の1のサイズのプラモデルで内部が再現されてる訳でもないし。で、戦艦はわかりやすいと言っても、それは大砲とか煙突とかの話で、そこで人がどの程度のサイズで、どの部分を動き回ってるのか、まではいまいち想像できない。上で書いた人のサイズの計算とかも、子供の頃はしないし。 なので、なんとなくのフォルムはわかるけど、細部が曖昧だなぁ、というのが正直な気持ちでした。 ところがですよ。模型作りから離れてずいぶん時間がたって、インスタで模型の画像を眺め始めて、ビビったわけです。もう子供のころ作ったことのあるキットとは見栄えが全然ちがう。なんかすごい精細なんですよ。解像度がパーンと跳ね上がったような。ブラウン管のテレビから、いきなり4K8Kのモニターに交換したみたいな。 これには何か秘密があるはず・・・ってもったいつけても仕方ないですが、そうです、「手すり」ですね。「手すり」が再現されているんですよ! めったに乗らないけど、私も船に何度か乗ったことあります。当然、海におっこちないように手すりがついてますよね。トップガンでも、トム・クルーズが海を眺めてカッコつけてるとき、手すりがあるので安心です。グースの認識票を海に投げこんだりするときに大きく振りかぶっても平気。手すりなかったらちょっと怖い。そりゃそうだ、軍艦だって人が乗ってるわけだし、海に人を落っことしながら進むわけにもいかないから、当然「手すり」ついてます。 で、この手すりが重要なのは、軍艦だけではなくて、日常の中にもそこいらじゅうにありますから、手すりがあるだけで人間のサイズを可視化できるわけです。 手すりの高さって、大体80センチとか100センチとかでしょうか。場所によっては120くらいあるのかな。人間の身長が2.5mmなら、手すりは1mmから1.5mmくらいですよ。めちゃ細かい。めちゃ細かいけど、これがあることで、とたんに「人がそこにいる」ことがわかるようになる。手すりがついてるとこは、「人が行くとこ」なわけです。もちろんね、1.5mmくらいのサイズですから、ぶっちゃけ完全に実物通りであるということではないと思うんですが、とはいえ設置箇所なんかは資料をもとにみなさん作られてるので、あーそこは通路だったのか、とか、艦の外側の壁面に3列分通路が設置されていれば、ああ、この艦のこの部分は3階建くらいの感じかーとか、このタラップ急だなぁ、登るの大変そうだな、とか、とにかく船の模型に生身の人間の物語が重なってくるのです。 こうした模型の細部を改造して、細部の再現性をアップすることを、ディティールアップっていうのですが、この楽しみを強力に後押しするのが「エッチングパーツ」という、薄い金属でできた部品です。細かすぎるサイズの部品は、プラスチックだとうまく成形できないので、どうしても艦船プラモデルの部品はディティールが甘くなりがちで、これは素材の性質上どうしようもないことなんですが、金属ならもっと細かい部品をつくれる。それもエッチングという技法でやる。エッチングは、電子機器の基盤とかを作るのにも使われる技法で、金属の表面をコートしたところ以外を酸で溶かしちゃう技法で、コートを印刷してしまうことで、非常に細かい細工を金属板に施すことができる。電子機器の基盤を見たことある人であれば、細かい金属の線が綺麗に張り巡らされて、たくさんの部品を繋いでるのを想像できると思うけど、あのような細かさなので、数ミリの手すりとかも作り出せるわけです。で、そういうディティールアップ用のエッチングパーツが販売されてるんですね。もちろん、パーツがあるといっても、めちゃくちゃ細かい部品だし、それを小さな船の模型に資料をもとに張り巡らせていくのは気が遠くなるほど神経質な作業だから、誰もができるわけじゃない。モデラーの中には、そうした市販のパーツを使わず、全て自作でディティールアップしている強者もいて、そうした神業モデラーが公開している作業動画とかを見始めると、ほんとうにびっくりするくらい時間が溶けていく。非常に困るね。 というわけで、子供の頃なんだかモヤっとするなぁと思っていた艦船模型は、近年大幅に解像度を上げたのです。目でものを見た時の解像度というか、解像感と言ったほうが良いかもしれない。模型で細部が再現されているとなんだか目の解像能力が上がったように感じる。もちろん視力が変わるわけじゃないので、これはそれだけ対象がくっきり見えるような錯覚なんですが、そのもののサイズに対して見えている情報量が増えたからでしょう。模型をみて、なんだかそこだけくっきり見えるような錯覚は、空間変調みたいで楽しい。 ちょっと前に「模型みたいな実写」という写真が流行りましたが、あれと似た原理かも。あれは被写界深度を思いきり浅くして実景を撮影すると、前後がボケて、まるでミニチュア模型を撮影したみたいになる。それを空撮とかで街区全体を撮ると、まるで精巧なジオラマをみてるみたいになる。対象は実物なので、当然ながら細部までしっかりと写ってる=超絶情報量なわけで、認知的にはミニチュアを見てるつもりなのに情報量が異常に多いので、なにかとてつもなく精巧なミニチュアを見てるような気分になるんですよ。 で、これは余談なんですが、スカイツリーを見に行ったときも同じ感覚がありました。スカイツリーはトラス構造が剥き出しのタワーですが、下から見上げると、なんだかちょっと目が良くなったような気がするんですよ。たぶん、常識的なトラス構造から想像するサイズよりも実際のスカイツリーがでかいので、細部まで見えてるように錯覚しちゃうんだと思うんですよね。これは認知の問題なので、他のトラス構造の構造物のサイズ感に関して、ある程度「常識」が出来上がってるからそうなるんだと思います。なので誰でもそうなるとは言えないのだけど、このあたりの「精密さ」と「解像感」の関係には、緻密さを演出する上でのヒントがあるように思います。 もう一つ、前回の話題につなげて「水」の表現の話も。 船は当然、海なり湖なりに浮かんでるわけです。潜水艦なら水の中。単体の模型であればいいのだけど、では艦船模型を使った「情景」はどうするのか?というのは、とにかく「水」「水面」「波」をどこまでうまく模型で再現するか、という課題でした。 子供の頃見かけたのは、概ね石膏を流しこんで固めたり、紙粘土で波頭を作って塗装して、表面を透明アクリルで塗って仕上げたりしたもの。もちろん、そういう手法で超絶な水面表現している作品は今も作られている。しかし、透明度の高い樹脂を用いた水中模型の登場は、新しい素材ならでは。波打ち際などの再現でも、やはり水の表面の透明度は樹脂でないと難しい。(表面に透明のプラ板を貼るという作例を見たことがある。あれは子供心に工作難易度高いなぁと思ってた。)船の模型といえば飾り台に飾られているものだったので、情景表現の幅が広がるのは非常にうれしい。 で、艦船模型の中でもここまで基本的に「プラモデル」ベースの話をしてきたのだけど、やはり艦船模型の頂点は、むしろ木製の帆船模型かもしれないと、心の片隅で思ってる自分がいます。これこそまったく自分が足を踏み入れたことのない世界ではありますが、ますます魅力的なので、次回はそのあたりの話題と、蒸気機関とロイヤルネービーの大英帝国だからこそ、イギリス人は鉄道模型と艦船模型を好むのだろうか?というあたりの話題に移りたいと思います。帝国主義と模型の話題はその後にしましょう。 はらだ #01を読む #02を読む

「鉄道模型と精密」 そのうちコマ撮りアニメに横すべりするはずの模型のはなし #02

鉄道模型の話の続きです。 前回は、HOゲージとかOゲージとか、はてはGゲージだとか(庵野さんの記事で初めて知ったわけだが、)でかいサイズの模型の話がメインだったけど、それはインスタで流れてくる鉄道模型の動画が、なぜかアメリカの鉄道模型ファンの動画が多くて、すべからずでかいサイズの模型の話題だったからですね。 自分自身は実はでかいサイズの模型にそこまで心惹かれていたわけではない。 メルクリンのZゲージの蒸気機関車のびっくりするくらいの精巧さ そもそも私が初めて実物を見た鉄道模型は、HOゲージやOゲージではなく、日本標準のNゲージでもなく、なぜかドイツの老舗鉄道模型メーカー・メルクリンのZゲージの蒸気機関車で、それはもうほんとにびっくりするくらい小さくて精巧だった。で、メルクリンの鉄道模型って、金属キャスト部品を多用してるんですよ。Nゲージは割とプラスチック感が強い印象なのだけど(思い込みかもしれない。ごめんなさい。)、それとはちょっと方向性が違う。サイズが極端に小さいのでかなり省略・デフォルメはされてるのだけど、なぜか精密感がすごい。それと模型表面の印刷がすごく綺麗だなという印象。上に貼ったyoutubeにも出てくる小さな蒸気機関車の全長が3〜4センチくらい、細かな車体の側面の配管とかも再現されていて、密度感が心地よかった。金属キャストのずしりとした重さとひんやりとした手触りも良くて、ずっと手に取って見ていたい感じ。すごく憧れました。 問題は値段が高いこと。サイズが小さいから狭い面積でも大きな構図のレイアウトで線路も設計できるし大編成も作れるよ!みたいなコンセプトなのだろうとは思うけど、メルクリンはドイツのメーカーで舶来品、とても子供に手が出せるものじゃない。大編成など夢のまた夢で、ここでもまた「カタログを見続ける」日々が始まる。 それにしてもメルクリンのカタログは美しかった。製品も普段見慣れないヨーロッパの蒸気機関車とか山岳鉄道とか、見たことないディーゼル車とか、どれもこれも魅力的な形状と色彩。再現されているレイアウトの情景もヨーロッパの街並みだったりアルプスの山岳地帯だったりして、想像を大いにかき立てられる。あと、抽象モデルというか、例えば等高線に沿ってきれいに裁断された白いボードを積み重ねて丘陵地帯を表現した真っ白な情景模型とかも深く印象に残っている。こういう表現もありなんだ、という驚き。あと山岳地帯の架橋と、その下を流れる渓流を表現した情景では、ガチで水の表現をやっていて、模型でもここまでできるんだと驚いた。 もちろん、今思えば、当時の模型における「水」表現は、素材的な限界もあっただろうし、現在に比べるとかなり未熟だったと思うけど、それでも紙粘土や石膏で水面を作って着彩した「水面」に比べると、透明感のあるリアルな水面表現に成功している写真が掲載されていたような気がする。 そうした情景模型としての魅力もありつつ、やはり鉄道模型は機関車や車両の、モデルの緻密さに憧れた。 自宅には「鉄道模型趣味」というマニアックな雑誌がなぜか数冊あって、そこには国鉄の何年の何型の客車の制作、みたいな記事がふんだんに載っていて、車体をボール紙を重ねて構築し、真鍮線を曲げて手すりを作ったり、台車は既製品を改造して使うとか、そういう制作記事には、図面や部品の型紙まで載ってたような気がするんだけど(ノリは手芸雑誌に近い?)、その記事の写真がすごくカッコよく、作例は細部までびっくりするぐらい再現されていて工芸品のようでもあり、鉄道模型とはだから、私にとっては、凄腕のモデラーが手作りする奇跡の逸品みたいなものでもあった。 探してたら、まさにこんな感じ!という匠の方がいらしたので、貼っておきます。 この方は45分の1で制作されているそうですが、ざっくりOゲージ。やはり緻密に作り込むには物理的なサイズも必要になってくるのでしょう。こういう、わりとゴツめのサイズの方がやはり鉄道模型の花形みたい。実はメルクリン社も、メインストリームはOゲージ・HOゲージなどの大きめなラインナップのようです。 その対極にあるのがZゲージ、こっちはとにかく小さい。 鉄道模型はレールの幅(軌間、ゲージ)でサイズを表します。改めてざっとそれぞれの軌間(線路の幅ですね)を整理すると、Oゲージが32mm、HOが16mm、Nゲージは9mmで、Zゲージは6.5mmなのです。車両の幅は線路の幅よりも少し広いので、ざっと1センチに足りないくらいか。そのサイズなので、どうしても表現できることに物理的な限界がある。模型表現としては情報量を相当削ぎ落とす必要があるはずなんですね。上で紹介した工房の方も、だから45分の1サイズでやってるとおっしゃってます。だから軌間が6.5mmしかないZゲージはかなり表現を限定されていると思う。にもかかわらず、メルクリンのZゲージからは、めちゃくちゃ精密な印象を受ける。 エッジの処理、要所の作り込み(手すり、鋲、パイプ)、色や文字等の表現。そういう細部に神経を行き渡らせ、慎重に削ぎ落とす情報を決める。「完全に再現」することを目指すのではなく、適度に見る側に「想像」させ、見た時の「印象」を伝えるセンス。このあたりがうまくいっている模型は見てるだけで幸せな気分になる。 鉄道模型における「精密」とはなにか? そもそも、模型における「精密」ってなんですかね。何を表現すれば「精密」だと感じるのか。実物をコピーすれば精密なのか?厳密な意味で実物を完全にコピーすることは不可能だから、模型は実物を縮小して再現するときに、常に情報の取捨選択を迫られる。再現の度合いによって情報密度の濃淡が生まれる。模型に近づいて細部を見た時に、「ここまで再現してるんだ!」という驚きが精密模型の醍醐味である一方で、模型からちょっと離れて全体を見た時に、情報密度の濃淡が、実物(や、その写真)を見た時の印象と近いかどうかもすごく大切な気がする。のべつ緻密に作り込むよりも、その濃淡の印象を近づける。これはフォルムについても同様で、完全に設計図どおりに縮小しても、見た目の印象が同じになるとは限らない。基本的には実物に可能な限り忠実にするとしても、その縮尺で見た時の「印象」を近づけるために微調整が必要で、それが模型の出来不出来を左右するのではなかろうか。模型におけるリアリティの根っこはこのあたりにありそうだ。 これは他の表現にも同じことが言える気がする。緻密に描けば自動的にリアルになるわけではない。非常に省略してるのに説得力のある絵もあるし、めちゃくちゃ描き込んでいるのにリアリティを感じないこともある。ミリオタで有名な宮崎駿が月刊モデルグラフィックスで連載していた「宮崎駿の雑想ノート」には、たくさんの古い兵器の絵が登場する。どれもある種のデフォルメが効いていて、密度感のある描き込みがありつつ、精緻に描き込もうというよりかは、それぞれの兵器から宮崎駿が受けた「印象」を表現している気がする。もちろんこれはすでにスケールモデル的な精密さとは別の話になってきてるが、一見「実物そのまま」に作っているように見える模型も、ある種の省略の美学とデフォルメで構成されている表現なんじゃないかと思う。 だからか、皆がそれぞれに強い印象を持っているものは、再現が難しくなるのかもしれない。件の宮崎駿は映画「風立ちぬ」のときのインタビューで、「零戦だけは難しい」みたいなことを語っていた。(ように思う、、、うろ覚えですが、、)その文脈はどちらかというと美学的な繊細さについての話題だったように記憶しているけど、私は、皆がいろいろな写真や創作物で零戦を見すぎていて、それぞれに強い印象を持っている人が多いもんだから、何を描いても誰かにとって違うとか、あるいは航空機メーカーのご子息でもあった宮崎駿が零戦に持っている印象が、世間一般で流布している印象とちょっと違うのか、とか想像していました。実際私は、「風立ちぬ」の零戦は、ちょっとシュッとし過ぎていて繊細すぎて、あまり零戦に見えなかった。 このあたりの追求はいつも非常に難しいのだと思う。そんなことを考えながら、ついまた模型の動画を見て現実逃避してしまう。 補足的に。情景模型における水表現の話が出たので思い出したのだけど、深堀隆介さんという美術作家がおられます。 けっこう人気のあるアーティストだと思うのですが、透明の樹脂をお椀とかに流し込んで、そこに金魚の絵の、もっとも水底に近い部分を描いて、また樹脂流しこんで、また金魚のちょっと水面に近い部分の絵を描いて、というのを繰り返して、まるで水中にホンモノの金魚がいるみたいな美術作品を作られている。描くのは平面だけど、完成品は立体に見えるので、2.5Dっていう言い方をしてたりもするみたい。この方の作品を見ると、透明度の高い樹脂の登場が、造形における水表現を大きく広げたのがよくわかる。最近の情景模型における水表現も、概ねこれに似た手法で、情景の台座に透明樹脂を流し込んで固める。当然、水中も表現できるし、海面の泡立つ波なんかも、白い塗料を塗布して、風圧で塗料を吹き伸ばして再現するなど、繊細な進化を遂げていて、これまた作業動画をずっと見入ってしまう。 はらだ #01を読む