鉄道模型の話の続きです。

前回は、HOゲージとかOゲージとか、はてはGゲージだとか(庵野さんの記事で初めて知ったわけだが、)でかいサイズの模型の話がメインだったけど、それはインスタで流れてくる鉄道模型の動画が、なぜかアメリカの鉄道模型ファンの動画が多くて、すべからずでかいサイズの模型の話題だったからですね。

自分自身は実はでかいサイズの模型にそこまで心惹かれていたわけではない。

メルクリンのZゲージの蒸気機関車のびっくりするくらいの精巧さ

そもそも私が初めて実物を見た鉄道模型は、HOゲージやOゲージではなく、日本標準のNゲージでもなく、なぜかドイツの老舗鉄道模型メーカー・メルクリンのZゲージの蒸気機関車で、それはもうほんとにびっくりするくらい小さくて精巧だった。で、メルクリンの鉄道模型って、金属キャスト部品を多用してるんですよ。Nゲージは割とプラスチック感が強い印象なのだけど(思い込みかもしれない。ごめんなさい。)、それとはちょっと方向性が違う。サイズが極端に小さいのでかなり省略・デフォルメはされてるのだけど、なぜか精密感がすごい。それと模型表面の印刷がすごく綺麗だなという印象。上に貼ったyoutubeにも出てくる小さな蒸気機関車の全長が3〜4センチくらい、細かな車体の側面の配管とかも再現されていて、密度感が心地よかった。金属キャストのずしりとした重さとひんやりとした手触りも良くて、ずっと手に取って見ていたい感じ。すごく憧れました。

問題は値段が高いこと。サイズが小さいから狭い面積でも大きな構図のレイアウトで線路も設計できるし大編成も作れるよ!みたいなコンセプトなのだろうとは思うけど、メルクリンはドイツのメーカーで舶来品、とても子供に手が出せるものじゃない。大編成など夢のまた夢で、ここでもまた「カタログを見続ける」日々が始まる。

それにしてもメルクリンのカタログは美しかった。製品も普段見慣れないヨーロッパの蒸気機関車とか山岳鉄道とか、見たことないディーゼル車とか、どれもこれも魅力的な形状と色彩。再現されているレイアウトの情景もヨーロッパの街並みだったりアルプスの山岳地帯だったりして、想像を大いにかき立てられる。あと、抽象モデルというか、例えば等高線に沿ってきれいに裁断された白いボードを積み重ねて丘陵地帯を表現した真っ白な情景模型とかも深く印象に残っている。こういう表現もありなんだ、という驚き。あと山岳地帯の架橋と、その下を流れる渓流を表現した情景では、ガチで水の表現をやっていて、模型でもここまでできるんだと驚いた。 もちろん、今思えば、当時の模型における「水」表現は、素材的な限界もあっただろうし、現在に比べるとかなり未熟だったと思うけど、それでも紙粘土や石膏で水面を作って着彩した「水面」に比べると、透明感のあるリアルな水面表現に成功している写真が掲載されていたような気がする。

そうした情景模型としての魅力もありつつ、やはり鉄道模型は機関車や車両の、モデルの緻密さに憧れた。

自宅には「鉄道模型趣味」というマニアックな雑誌がなぜか数冊あって、そこには国鉄の何年の何型の客車の制作、みたいな記事がふんだんに載っていて、車体をボール紙を重ねて構築し、真鍮線を曲げて手すりを作ったり、台車は既製品を改造して使うとか、そういう制作記事には、図面や部品の型紙まで載ってたような気がするんだけど(ノリは手芸雑誌に近い?)、その記事の写真がすごくカッコよく、作例は細部までびっくりするぐらい再現されていて工芸品のようでもあり、鉄道模型とはだから、私にとっては、凄腕のモデラーが手作りする奇跡の逸品みたいなものでもあった。

探してたら、まさにこんな感じ!という匠の方がいらしたので、貼っておきます。

この方は45分の1で制作されているそうですが、ざっくりOゲージ。やはり緻密に作り込むには物理的なサイズも必要になってくるのでしょう。こういう、わりとゴツめのサイズの方がやはり鉄道模型の花形みたい。実はメルクリン社も、メインストリームはOゲージ・HOゲージなどの大きめなラインナップのようです。

その対極にあるのがZゲージ、こっちはとにかく小さい。

鉄道模型はレールの幅(軌間、ゲージ)でサイズを表します。改めてざっとそれぞれの軌間(線路の幅ですね)を整理すると、Oゲージが32mm、HOが16mm、Nゲージは9mmで、Zゲージは6.5mmなのです。車両の幅は線路の幅よりも少し広いので、ざっと1センチに足りないくらいか。そのサイズなので、どうしても表現できることに物理的な限界がある。模型表現としては情報量を相当削ぎ落とす必要があるはずなんですね。上で紹介した工房の方も、だから45分の1サイズでやってるとおっしゃってます。だから軌間が6.5mmしかないZゲージはかなり表現を限定されていると思う。にもかかわらず、メルクリンのZゲージからは、めちゃくちゃ精密な印象を受ける。

エッジの処理、要所の作り込み(手すり、鋲、パイプ)、色や文字等の表現。そういう細部に神経を行き渡らせ、慎重に削ぎ落とす情報を決める。「完全に再現」することを目指すのではなく、適度に見る側に「想像」させ、見た時の「印象」を伝えるセンス。このあたりがうまくいっている模型は見てるだけで幸せな気分になる。

鉄道模型における「精密」とはなにか?

そもそも、模型における「精密」ってなんですかね。何を表現すれば「精密」だと感じるのか。実物をコピーすれば精密なのか?厳密な意味で実物を完全にコピーすることは不可能だから、模型は実物を縮小して再現するときに、常に情報の取捨選択を迫られる。再現の度合いによって情報密度の濃淡が生まれる。模型に近づいて細部を見た時に、「ここまで再現してるんだ!」という驚きが精密模型の醍醐味である一方で、模型からちょっと離れて全体を見た時に、情報密度の濃淡が、実物(や、その写真)を見た時の印象と近いかどうかもすごく大切な気がする。のべつ緻密に作り込むよりも、その濃淡の印象を近づける。これはフォルムについても同様で、完全に設計図どおりに縮小しても、見た目の印象が同じになるとは限らない。基本的には実物に可能な限り忠実にするとしても、その縮尺で見た時の「印象」を近づけるために微調整が必要で、それが模型の出来不出来を左右するのではなかろうか。模型におけるリアリティの根っこはこのあたりにありそうだ。

これは他の表現にも同じことが言える気がする。緻密に描けば自動的にリアルになるわけではない。非常に省略してるのに説得力のある絵もあるし、めちゃくちゃ描き込んでいるのにリアリティを感じないこともある。ミリオタで有名な宮崎駿が月刊モデルグラフィックスで連載していた「宮崎駿の雑想ノート」には、たくさんの古い兵器の絵が登場する。どれもある種のデフォルメが効いていて、密度感のある描き込みがありつつ、精緻に描き込もうというよりかは、それぞれの兵器から宮崎駿が受けた「印象」を表現している気がする。もちろんこれはすでにスケールモデル的な精密さとは別の話になってきてるが、一見「実物そのまま」に作っているように見える模型も、ある種の省略の美学とデフォルメで構成されている表現なんじゃないかと思う。

だからか、皆がそれぞれに強い印象を持っているものは、再現が難しくなるのかもしれない。件の宮崎駿は映画「風立ちぬ」のときのインタビューで、「零戦だけは難しい」みたいなことを語っていた。(ように思う、、、うろ覚えですが、、)その文脈はどちらかというと美学的な繊細さについての話題だったように記憶しているけど、私は、皆がいろいろな写真や創作物で零戦を見すぎていて、それぞれに強い印象を持っている人が多いもんだから、何を描いても誰かにとって違うとか、あるいは航空機メーカーのご子息でもあった宮崎駿が零戦に持っている印象が、世間一般で流布している印象とちょっと違うのか、とか想像していました。実際私は、「風立ちぬ」の零戦は、ちょっとシュッとし過ぎていて繊細すぎて、あまり零戦に見えなかった。

このあたりの追求はいつも非常に難しいのだと思う。そんなことを考えながら、ついまた模型の動画を見て現実逃避してしまう。


補足的に。情景模型における水表現の話が出たので思い出したのだけど、深堀隆介さんという美術作家がおられます。

けっこう人気のあるアーティストだと思うのですが、透明の樹脂をお椀とかに流し込んで、そこに金魚の絵の、もっとも水底に近い部分を描いて、また樹脂流しこんで、また金魚のちょっと水面に近い部分の絵を描いて、というのを繰り返して、まるで水中にホンモノの金魚がいるみたいな美術作品を作られている。描くのは平面だけど、完成品は立体に見えるので、2.5Dっていう言い方をしてたりもするみたい。この方の作品を見ると、透明度の高い樹脂の登場が、造形における水表現を大きく広げたのがよくわかる。最近の情景模型における水表現も、概ねこれに似た手法で、情景の台座に透明樹脂を流し込んで固める。当然、水中も表現できるし、海面の泡立つ波なんかも、白い塗料を塗布して、風圧で塗料を吹き伸ばして再現するなど、繊細な進化を遂げていて、これまた作業動画をずっと見入ってしまう。

はらだ

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