チョーヒカル

ペインティングアーティスト 2016年 武蔵野美術大学卒業 2021年 Pratt Institute 修士課程を卒業 体や物にリアルなペイントをする作品で注目され国内外で話題になる。笑っていいともを含む多数のメディア出演に加え、Samsung、Amnesty International、資生堂など企業とのコラボレーションや、国内外での個展、イラスト制作、衣服デザイン、アートディレクション、番組企画など多岐にわたって活動している。近年出版されたペイント絵本「じゃない!」はヒバカラス賞、サクラメダル賞受賞に加え緑陰図書にも選ばれた。著書は絵本5冊の他に作品集、イラスト図誌、漫画、エッセイ集がある。


ニューヨークに来てすぐのころ、せっかくだからとマッチングアプリをやった。日本ではほとんど出会ったことのない顔をした、第一言語も違う人々を順々にスワイプしていくのはなんだか不思議な感覚で、マッチングアプリのゲームのような仕様も手伝ってまるでフィクションのようだった。白人、黒人、ラティーノ、正直自分のタイプがどの人なのかわからない。自分の持っている「好みの顔」が日本の中での基準でしか作られていないことを痛感する。その中でマッチした白人の男性と、英語でのチャットが始まった。

「こんにちは、美しいね」

「ありがとう」

「僕、アジア人に弱いんだよね」

あ、私、この人にとって「アジア人」なんだ。自分が人種で分ければアジア人であることは理解していたが、他人に「アジア人」という枠で見られているということをここまで如実に感じたのは初めてだった。相手は私のことを全く知らない他人で、この人にとって私は今「好みのアジア人」でしかない。自分が輪郭だけになるような、2Dで見られているような、気持ち悪さがあった。色々な人種が集まるニューヨークで初めて私は自分がアジア人(主に東アジアのくくり)であるのだと自覚した。

木を隠すには森が良いというが、森の中の木々は自分が木であることなど意識しないだろう。周りに木しかなければ、木であることは「言わずもがなな標準」であるからだ。それは例えば日本国籍保有者の割合が97.5%ほどの日本においても同じだ。周りに日本人しかいない中、事実として自分が日本人だと理解していても、真に迫って「自分は日本人なんだ」と意識する瞬間なんて、日常生活ではほとんど無いのではないだろうか。

私は「在日中国人」として生まれ育ったため、幸か不幸か常に自分が中国人だという自覚に苛まれながら生きてきた。人は他人との比較で自分の形の理解を深める。見渡せば日本人しかいない中で、自分の形がほんの少し周りと違うことは忘れさせてもらえなかった。だが日本よりもずっとたくさんの人種が共存するこの国アメリカ(といっても郊外はかなり保守的なところが多いので、私の住んでいるニューヨークのような街でしか多様性は感じられないかもしれない)では、「在日中国人」と「日本人」の差はあまりに些末で、私たちはまとめて「アジア人」なのだった。

初めてのアジア人の自覚を噛み締めながら、マッチングアプリでの会話は続く。

「なんでアジア人が好きなの?」

「アジア人の女の子は白人や黒人の女性と違ってフェミニンで従順だからさ」

「アジア人の女の子はセクシーなんだ。僕はA Vもいつも日本のやつばっかり見てるんだ。」

今言われたら軽くキレている返答だが、数年前、まだアメリカに来たばかりの私はこの返答の気持ち悪さにイマイチ気づけていなかった。ふーん、アジア人の女の子ってモテるんだ。うまく言語化できない気持ち悪さは感じつつも、その程度の感想だった。そこでまた初めて、「アジア人女性」のイメージがA Vで形作られている部分があることを知った。

アメリカでアジア人でいるというのはどういうことか。多様性を謳うこの国でもアジア人はマイノリティだ。たとえば職業にステレオタイプがある(バンドマンは遊んでいるとか、税理士は真面目とか)のと同じで、アジア人として見られることにもステレオタイプが付随している。メディアで簡略化され誇張されたキャラクターとして映されるアジア人が、多数の人のイメージのもとになっている。具体的には頭がいいとか数学が得意とか、他の有色人種に対する偏見よりも良いものが多く、アジアンアメリカンは往々にして「モデルマイノリティ」と呼ばれている一面もある。ただ、アメリカに住むアジア人はよくこの理想像と実際の自分の差に苦しむ。また、モデルマイノリティでいることは実際にあるアジア人に対する人種差別に対して声を上げづらくなる理由にもなっている。

そしてそこに近年はアジアンフェティッシュが追加されている。アメリカにおけるアジア人女性(特に東アジア)を性的に見るフェティッシュの起源が何かは諸説あるが、メディアでの描かれ方は大きいだろう。マダム・バタフライやミス・サイゴンなどが有名どころだろうか、アジア人女性の性はまるで他と違うかのように描かれた。従順でなんでもいうことを聞き、誰にも触られたことのないような体でありながら淫乱で、エキゾチック。一人の独立した人間ではなく、ただ男性の持つファンタジーを体現したような描かれ方。他の人種にはとても押し付けられない理想像を、まだ良く知らない人種には投影しやすかったのかもしれない。そんな傾向は100年以上尾を引いて、今も当たり前のようにこうやって「アジア人女性は従順でセクシー」などと抜かす輩に出会うのだ。ただ気持ち悪いメッセージが来るだけならまだいいかもしれないが、このステレオタイプは実際ヘイトクライムにも発展している。アトランタで男性がアジア人が経営のマッサージ店に行き大量射殺をするという事件が近年あった。亡くなった8人のうち6人がアジア人だった。彼は「俺はセックス中毒だから、誘惑の原因を抹殺しようと思った」と述べたという。彼にとってマッサージ店で働くアジア人女性たちは人間ではなく性的な物体でしかなかった。

逆にアジア人男性は、某マッチングアプリ調べによると1番ヒキの弱い枠であるらしい。(近年KPOPの人気上昇に伴い傾向は変わりつつあるかもしれない)アジア人男性の一般的なイメージは「弱い」「男らしくない」などなど、マッチョ嗜好の強いアメリカ社会ではなかなかウケが悪い。同じアジア人枠でもフィメールプレゼンティングの人だけが性的な見られ方をしているのはなかなか不思議だなと思う。

アジア人の自覚と共に芽生えたのは、アジア人への仲間意識だった。私は前述したように在日中国人という生い立ちで、自分は日本人とは違うのだと自覚しながら生きてきた。だから日本にいた時はアジア人だから日本人と同じ枠組み!なんて思うことはなかなかなかった。それがどうだ、違う人種に囲まれて出身もみんなバラバラな中だと、いつの間にか中国や韓国、フィリピン、インドなど、アジア諸国(東アジアに傾倒しがちな傾向はある)からきた留学生と目が合い、手を伸ばしあっていた。中国語もつたなく韓国語に至ってはアニョハセヨとサランヘヨしか言えないものだから、結局コミュニケーションは英語で、他の人種と話しているときとなんら変わらないはずなのに、アメリカというあまりにも異国の地において、米と麺をよく食べるというだけで共に戦いを潜り抜けてきたかのような気持ちになってしまう。たとえアメリカ生まれアメリカ育ちのアジア人と出会った時も、ほんの少し、何か言葉にしなくてもいい部分を共有しているかのように思えてしまう。ネガティブではないかもしれないが、確かな偏見だ。日本で生まれ育つ中でどうにも人と足並みを揃えられず、「例外」枠にばかり入れられていた中で「人はみんなそれぞれ違うのだから、人種や出身国で判断するのはおかしい」と声高に主張してきたにもかかわらず、アジア人という自分が疑問無く属せるアイデンティティを見つけた瞬間、根拠のない安心感に引きづられて、私はアジア人を仲間として見るようになってしまった。仲間を見つける安心感やそこから感じる誇りと、それによって人を簡略化してレッテルで見てしまうことのバランスを取るのは、いつも難しい。

そのマッチングアプリで出会った白人男性とは一度デートに行った。日本に旅行で一回行ったことがあるっきりの彼は「僕の知っている一番美味しいラーメンを食べさせてあげるよ」と意気揚々とミッドタウンにある謎の居酒屋もどきに私を連れて行き、全く旨味のない薄いスープのラーメン(?)を「澄んだ味がするだろう?」とドヤ顔で啜っていた。私はそれに「いやこれまずいですけど」と言えず、あれ、これじゃ私本当に従順じゃんか。と最悪な気持ちで、これまた味の薄い焼きそば(?)を啜った。アジア人であること、ステレオタイプが当てはまることもあること、それを認めつつ自分や他人のことを平面化しないように心がけるのは、N Yで本当に美味しいラーメンを見つけるくらい難しいのかもしれない。