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全体の目次


#01

・アニメーションにおけるノンナラティブな表現とは?
・映画祭で自身の作品がノンナラティブ部門で上映されていた
・「物語」がない作品ではなくて「物語」を作品の柱に置いていない作品という解釈
・ジャンルとか気にせず好きなものを作り続けている
・転ぶと痛いし柔らかいものは心地いい
・ジュラシックパーク、ターミネーターからのリュミエール兄弟
・映画は物語だけじゃなくて瞬間の体験もある
・映画の中に散りばめられてる忘れられない体験が好き
・ある夏の日、ビニールプールでコンビナートを模して監督した怪獣映画ごっこ遊び
・ジェダイの帰還を劇場で観た記憶
・映画が大好きな両親の元で
・高校三年生でファントムメナスを観るために劇場に並ぶ
・劇場空間というアナログへの憧憬
・T-1000を見た衝撃
・異質なものや奇妙なものが見たい
・ETERNITYのインタビューより
・短い尺の中で実験的に奇妙なものを作る
・20分寝させないものをノンナラティブで作るためのライド型
・映画が終わったときに映画館にいたことを気付かされるということ
・ETを見た後の自転車爆走の夜

#02

・平面の大画面で主観映像を観るとVRになる
・「スパイダーバース」における映像の快楽性
・ノンバーバルの価値とは
・言葉で伝え合うときの曖昧性
・ドイツで「WONDER」を見てくれた女性からの言葉
・ノンバーバルは見た人に自発的に何かを考えさせる効力があるのかも
・アンケートが苦手 ・「フラグルロック」の話
・「水江西遊記(仮)」について
・いま、西遊記をやるということ
・人間がどう生きていくのか、世界をどう認識するのか

#03

・「License of Love」について
・たくさんのキャラクターを出すこと
・生きること、死ぬことの拡大がテーマ
・子供のときに読んだ学研の科学より
・Twoth(トゥース)さんの曲について
・イントゥーアニメーション8の曲も作ってくれている
・イントゥーアニメーション8のプラグラムについて
・アニメーションがより面白い時代になってきている
・アニメが横断し始めて、混沌としているが刺激的である

#02が始まります


平面の大画面で主観映像を観るとVRになる

迫田

軽いおさらいなんですけども、僕のほうからまず「ノンナラティブ」という言葉に対して、水江さんに解釈をお願いして、いろいろ話していただきました。で、そこからまあ物語というお話になっていく中で、水江さんのこの原体験の部分を聞いていっておりまして、本当に幼少期から親が映画がお好きな状況が見て取れて、すごくいろいろなものを連れて行ってもらっていたんだなというところで、『ジュラシックパーク』で『ターミネーター』の話で、その中で用いられている一つの表現であるCGについて、それが水江さんには奇妙で異質で、ただそれが快楽につながるような印象はすごく持たれていて、そこがやっぱり今こう作られているものにもこう脈々と繋がっていってるんだろうなというところが見て取れたという話だったかなと思います。

という中で『ETERNITY』の話なんですが、やっぱりこの精神が体から解放されることだったり、抽象アニメーションの持つポテンシャルあまたはあのノンバーバルな価値みたいなものも、ちょっとお話を聞いていければと思ったんですが、やっぱ映画館という大画面の場所で一人称視点でライド型で展開された平面コンテンツって、もはやVRと遜色ないかなと思ったりはしていて、なんかそれがむしろこのヘッドマウントディスプレイを強引にかぶせるVRよりも、よりこうVR的感覚をストレスフリーで感じる方法なのだろうなって思っていて。

なんか結構、僕はそれに一つのVRの答えがあるんだろうなとずっと思ってるんですよ。 巨大な画面であのライド型を見せるっていうのが一番ストレスフリーでいいんじゃないかって。僕、トクマルシューゴさんすごい好きでして、あのやっぱこうここにトクマルシューゴさんの曲をこう大音量で聴けるんだったらすごい心地いいだろうなって僕ちょっと見に行けなかったのであのあれなんですけど、っていうのをなんか思っておりました。

という中でまたちょっと引き続きではあるんですけども、抽象アニメーションの持つポテンシャルであったり、ノンバーバルの価値みたいなものとかも紐づけてこの後にお話をお聞きできれば 思っておるのですが、どうでしょうか?

水江未来

そうですね。『ETERNITY』のVR版を作るという話がチーム内で出たこともありましたね。実際にVR版の製作のための助成金に応募したこともありましたが、残念ながら受け取ることはできませんでした。そのため、『ETERNITY』の制作が終わった後にVRの製作に取りかかることはできませんでしたが、大きな画面を見ながら一人称視点で動くと、VRのような感覚が味わえるのはまさしくそうですね。

例えばUSJに昔あった『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のアトラクションが、半球体のスクリーンの中にデロリアンがあって、首を振っても全部が画面の中なわけですよね、すっごい頑張って見ると端っこ見れるんですけどでも、もうまあ、基本的にはもう全部視界が覆われていて、あれは もうリアルアナログVRっていう感じですけども、僕VR最初やっぱ体験したときは、これはあの「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」みたいだなと思いましたけど、やっぱりなんかそういったものを作りたいなってのはあったんですね。

最近はやっぱりそうですね、あの『スパイダーバース』がそういうことをやってる映画ですよね。あれはもう本当に映像の洪水っていうか、快楽性がものすごくて、『アクロス・ザ・スパイダーバース』なんかは冒頭シーンがオスカー・フィッシンガーの実験アニメーションオマージュから入るんですよ。ドラム叩いてるところが、ええマジか、っていう感じなんですよ、もうあのそういう系のアニメーション作ってる人間からするとオスカー・フィッシンガー引用してくるのか〜みたいな。

それで、途中で大量のスパイダーマンが追いかけてくるっていうシーンは、フランスのポール・グリモーっていう監督がいて、その人のもともとの『やぶにらみの暴君』というイトルで長編アニメーション映画作ってたんですけど、まあ『王と鳥』って言うタイトルで、その後作り直した作品がありまして、あれは男女が逃避行するんですね。で、大階段をダダ―ってこう走りながら、それを大量の人たちが捕まえろ、って言って追いかけてくる有名なシーンがあって、それを彷彿するんですよね。全く製作者側は別にそれは引用してないっていうか、頭に入ってない可能性もあるんですけど、あの大人数が人を追いかけるっていうシーンは他にも普通にあるかなとは思うので 。

でもやっぱりなんかそういうこう、所謂なんていうんですかね、インディペンデント系のアニメーションだったりとか、ヨーロッパの長編アニメーションとか、そういったものに親しんできた人間が、こういう表現も取り入れてくんだみたいな、やられた、っていう感じはすごくありますよね。と同時に、物凄く興奮してしまうので『スパイダーバース』みたいな映画は、ちょっとその変形版はいろんな人が作れるぞ、みたいな、すごく期待感があるというか、なんかこうちょっと自分も長編頑張ろうみたいな、そんな感じになりましたけど、本当にそういうこう映像的快楽っていうのは最近の作品にもすごくありますよね。

迫田

長編頑張ろう、っていう言葉も水江さんから出たので、今チャレンジされてる長編の話にも行けそうな気もするし、ちょっとまだ『やぶにらみの暴君』の話にとどまって、時節柄、宮崎駿さんとこう紐付けて語るみたいなのも面白そうだしとか思ったり、あのなんかいろいろ思いましたね。

あと、なんだろうな、そのメタモルフォーゼアニメーションやあの『ETERNITY』でやられていることって、曼荼羅のモチーフとかも出てくるって話あったんですが、やっぱその何ていうかな、基本的に空の思考っていうか、めちゃくちゃ仏教的だなとも思うわけですよ。「色即是空、空即是色」だったり、「諸行無常」じゃないですけど。だからなんかその辺のモチーフの話も聞きたいしなどなど、なんか僕、水江さんに聞きたいことが渋滞してるような感じでございます、っていう感じなんですけど(笑)一旦じゃあ、最後に『ETERNITY』絡みでお話を聞きできればと思うんですけども、ノンバーバルの価値みたいなものとかは、水江さんはどうお考えなのかなっていうことをお聞きしたいと思います。

水江未来

そうですねえ、例えばその言語っていうものは非常に難しいんですよね、共通の言語がないとコミュニケーションが取れないんじゃないですか。同じ英語を話すとか、日本語を話すとかでも日本語を話す同士でも結構違う世代が離れてると、今それなんて言ったの?みたいな感じになったりするわけですよね。で、今大学で教えてたりもするので、まあ自分の半分ぐらいの年齢のが学生と話したりするんですけども、例えば「昔」って言葉を使ったりするんですよ、学生が。「自分にとって昔のことを描きます」みたいな。「その昔っていつなの?」って聞いたら「中学の頃」とか言うんですよ。要するに5年前とかなんですよ、その学生からしたら。で、別に僕からしたら5年前だって昔ではないじゃないですか。

だから要するに昔とか今とか未来とかを指す時っていうのは、その人の年齢だったり、どれぐらいの人生を生きてるかとか、まあどういう経験してるかによって、昔とか過去とか今とか未来って言葉っても指してるものが全く違うので、同じ言語を使っててもよくよくちゃんとこう話し合わないと、実は意思疎通取れてないっていうことはよくあるなぁ、いうのはよく思うんですよね。なのでどんどんこう、コミュニケーションとる時はいろんな角度から丁寧に話を聞いていくとか、まあ一回の会話だけではなくて、何回も話してる中で、ようやくその人がどういう人かっていうのがだんだん理解できていくっていうものだと思うんですけども。そういった中で、そのやっぱりそのノンバーバルなこうまあ映画っていうか、自分のアニメーションっていうのは、要するにその言語っていうところからは解放されているというか。

水江未来

ベルリン映画祭に10年ぐらい前に行ったんですね。で、その時に『WONDER』という作品を上映してで、それは6分ずっと色がぐにゃぐにゃ形が変容しながらいろんな色がでてきて、ずっと変容して行くっていうアニメーションでして。PASCALSが音楽を作ってくれてこう、すごく多幸感のある音楽で進んでいくんですけども、それを見に来てたお客さんで、一般のベルリン在住の女性の方だったんですけど、上映後に僕に感想言いに来てくれて。

今までの僕が作った作品で感想言われる時って、音楽と映像がタイミングが合ってて気持ち良いとか、いっぱい動いてて、なんかうわーってなったとか、まあ、要するに視覚的に見えるものの、刺激に対して感想言ってくれてるんですね。で、その『WONDER』って作品のときは違う感想をその女性から貰って。その人が言ってたのは「私は最近、黒とかグレーとかの服ばっかり来て毎日会社に行ってたけどなんか明日からは赤とか黄色とか青とかそういう色の服をたまには着て、自分の人生にWONDERを取り入れてみようかなと思った」みたいなこと言って帰ってったんですよ。

僕はそんな事別に言ってないんですよ、映画の中では。言ってないんだけども勝手にそういう風に受けとったんですよね。それで、僕は、すごいことだなって思って、なんかその自分の作品がすごいじゃなくて、抽象アニメーション的な作品でノンナラティブ、ンバーバルな作品がこういう風に見てる人が「明日からこうしよう」みたいなことを思わせてしまうっていう。なんかそういったその作品アニメーションが持つ力っていうのを、なんかはじめて目の当たりにしたんですよ。

それまで10年以上アニメーション作ってたんですけど、自分が作った作品でそういうことが起こると思っていなかったんで、まあアニメーションがすごく力があるんだなって言うのを、その時にすごく感じて、それからは自分が作る目的っていうのがすごく明確に変わったっていうのがありますね。要するにその映像を見る体験を通して、その人が何か新しいことを思いついたりとか、何かこれまでの自分から何か違うものを取り入れようとか、そういう風に少し考えが変わってしまう、考えを変えさせたいって思ってるわけじゃないんですけれども、なんかそういったことも起こるっていうことを期待して作品を作るっていうふうにこう変わったっていうのがあるので、まあそういう意味では、ノンバーバルなものっていうのは、その人の内側から自発的に何かをこう思わせるっていうか考えさせるっていうことが起こりうるのかなとか、そういうことは思ったりしますね。

ノンバーバルの価値とは

迫田

ああ、いや今のその実際のこのベルリン国際映画祭でのエピソードも踏まえて、なんかこのノンバーバルの価値がすごくなんか分かりやすく伝わったのではないかと、今勝手に思っていています。やっぱり人間って言葉を使ってるから言葉が一番相互理解しやすいとか思いがちですけど、普通に言葉が下手ですよね。解釈と事実っていうものの違いがあるみたいなこともあって、みんなナチュラルに前提を逸脱するし、言葉はすれ違う。だからなんか制作者側も言葉を使うと、言葉がもたらす規定によって、様々な解釈の幅を狭めてしまうっていうことがかなりあるなっておもうんですよね。

僕の解釈なんですけど、なんかやっぱ水江さんの作られているものって柔らかくて、その柔らかさをどう自分が受け取ってどう処理するのかを見る側に委ねられている感じがするんですよ。なんか柔らかいなって感じは僕も『WONDER』を見て、すごく思って。本当音楽も軽快でめちゃくちゃワクワクするし。なんか必ずしもみんながそうとは思わないかもしれないですけど大部分の人がそのポジティブな何かを勝手に自分の中で解釈して、テイクアウェイしそうな作品になってるなと思うので、ノンバーバルの力ってそういうことですよね。

自分で何かを解釈しようと思う人には、すごく背中を押してもらう技だし、逆に押しつけられたいって言う人には向かないっていうか、言葉で分かりやすく語って欲しいって言う人が結構マジョリティだったりするじゃないですか、世の中って。なんかそういう受け手の態度というか、受け手の今の人生のステージみたいなものもなんかだいぶありそうだなという気がしますよね。一緒に作っていく感じっていうんですかね、ノンバーバルって。お客さんと制作者と一緒に作っていくっていう感じなのかなっていう気もちょっとしました。

水江未来

そうですね。なんかこう今の話聞いてるとあの、アンケートって、僕、苦手なんですよ。理由が明確にあるんですが、アンケートを記入すると、そこで新たな誤解が生まれるんじゃないかっていうのがすごく気になってしまって、簡単に答えるってのは出来ないんです。「好きな食べ物何ですか?」って言われて「じゃあ卵焼きが好きです」って答えたら、その後、例えばそのアンケートを取った人たちとご飯を食べに行った時に、「水江さん卵焼き頼みますか」とか言われたりとか、「卵どうぞどうぞ」とかいって自分の前に卵が来たりとか。なんかそうなると、「えっと卵焼きだけど卵に目がないわけではない」っていうか、ちょっとそれが強まってしまう感じがあって。

「尊敬する人は誰ですか」がすごく難しい質問で、10代の頃とかは坂本龍馬とか書いてたんですよ。でもだんだん坂本龍馬の何に尊敬してるのがだんだん分かんなくなってくるんですよね。 でもう書かなくなったり、尊敬する人いないって書くようにしているんですけど、いないって書くとなんかこう逆に、そういう自分が一番すごいと思ってる人みたいに思われるんじゃないかとか….。だからもうアンケートはやめてくれみたいになるんですよ。

これってやっぱり言葉、言語で集約しないといけないっていうところに対しての難しさっていう部分があると思うので本当にその言語に集約しようとしなくていいっていうところが、やっぱり映像作品の中には魅力としてあるんだと思うんですよね。

迫田

面白いです。言葉が不自由だなと直感している人だからこそ、アニメーションという表現を使っているのに、そのアニメーションのことを言葉でなんとかアウトプットしてくれって、強制されてる感じは、「不自由なんだよなー」って感じがすごくしますよね。「伝えたいのはこの言葉だと補いきれないんだよなぁ」っていう。なりますよね。

後半でもまたその話をして行きつつ、長編のお話もお聞きしたいなと思っておりますので。ここで1曲ご紹介いただければと思いますが、どういたしましょうか。

水江未来

はい。この曲は僕は幼少期の頃に大好きだったあのテレビ番組の曲なんですけれども、ジム・ヘンソンのこのマペットを使ったテレビ番組で「フラグルロック」ですね。その番組の主題歌をお聞きください。

「フラグルロック」の話

水江未来

多分、幼稚園ぐらいの時に見てたものでNHKでやっていた番組なんですね。すごく面白い番組で、おじさんが犬と一緒に暮らしてる1つの家があるんですね。そこが舞台なんですけど、おじいさんと犬が暮らしててで、そのネズミの穴みたいなこう穴がネズミの巣の穴みたいなのが壁に空いてるんですけども、そこにカメラが入って行くんですよ。

で、そうするとその中にはフラグルという、ネズミみたいな生き物たちが暮らしている世界があって、でそこに行くとそのフラグルがいろんな種類のフラグルがいっぱいいるんですけれども、そこにさらにフラグルよりもちっちゃいなんか工事現場の作業員みたいな人たちがいて、その人たちはなんか砂糖菓子みたいな感じの建築物をずっと建築してるんですよ。だけど、フラグルがなんか暴れたりする。なんか、みんなどんちゃん騒ぎしてるんであのせっかくその作業員たちが作ったのをぶっ壊しちゃったりとかするんですね。

なのでその穴の向こう側に別世界があるんだけど、そこには2つの種族がいるんですよ。片方は超労働してて、片方は歌って踊ってしてるんだけど、さらにその奥に行くと、その穴から外の世界にまた行くんですけど、そしたらそこには着ぐるみのキャラクターですね、フラグルたちを人形を動かすものなんですけれども、今度は人が中に入ってるタイプのトロールたちがいる世界があって、で、そのトロールはフラグルを捕まえようとしてるんですよ。

そのトロールたちの世界があってという形でなんか全部で3つの世界があるんですね。人間のおじいさんの家の中の世界とええフラグル達の世界と、またその外側のトロールの世界っていうふうに、すごく入れ子になって3つの世界があって、そこを行き来するしながら、毎回エピソードが進むっていうのが、まあ、すごく魅力的だったというか、やっぱ別世界に行くっていうのって、それがこう入れ子になっているのが、やっぱりすごく面白かったですね。うん、

迫田

うん、面白いです。なんか勝手に紐づけちゃうんですけど、僕やっぱこう最近の映画のトレンドってやっぱり多人称、マルチバースがきてるなってなんかすごく思うわけなんですよね。普通に見える日常のショットを描く、またはそれを一方向でリニアで1時間描くにしても全然違う登場人物とか全然違う人称から見るとこうも違うんだっていうことが、なんか映画というフォーマットの中で使われ始めたなっていうのを最近すごく感じていて。

だからこれもある種、『フラグルロック』的なものも、同じ場所でいくつかの世界があって、それを別の視点で見てるっていうところがなにかのメタファーだよな、とか思ったりもして。是枝監督の『怪物』という作品が最近フューチャーされておりますが、あれも多人称というか、いくつかの視点で1つの物語を描くというところのフォーマットですし。『カメラを止めるな!』もそうだろうなって思うし、なんかそういうのを思いました。

水江未来

そうですよね、『カメラを止めるな!』のもそうですよね、確かに。あれは、何回も金曜日を何回もやり直しますよね。やり直すっていうか、いろんな人の視点で学校のある曜日を毎回毎回こうやってっていうのはまあマルチバース的ですよね。それぞれの視点で同じ時間でね。

迫田

マルチバース的ですね。『Everything Everywhere All At Once』もそうだし。 まあ、マーベルなんかは別のユニバース的な話だとも思いつつなんですけど、でもなんかすごいそのムーブメントが来てるなあっていうのが物語を語る上で、多人称で語らないと、もうわからないっていうレベルになってるんだろうなっていうのすごく思うんですよね。

水江未来

そうですね。うん、最近の『ザ・フラッシュ』とかもそうですしね。うん、はい。DC映画の『ザ・フラッシュ』。あれちょっとマルチバースですよね。そうですね。あの『ETERNITY』 も若干そういうところあるんですが、今企画してる『西遊記』もちょっとマルチバース的な感じではありますね。

「水江西遊記(仮)」について

迫田

ちょうどそれも聞いていきたいなと思ってました。『WONDER』の話からちょっとつなげると、この『WONDER』がベルリン国際映画祭でワールドプレミア上映され、アヌシー国際アニメーション映画祭で「CANAL+ CREATIVE AID 賞」を受賞し、というところでで、まあその流れもあると思うんですが、先ほども「長編やってみたいなあ」っていうお言葉が出ましたけれども、長編アニメーションに今挑戦されていて、それが『水江西遊記(仮)』というところで今制作開始されている、というところですかね。

水江未来

そうですね。今はまだ制作開始まではいっていなくて、前段階というか第一項として物語はもう自分で執筆をしていて、キャラクター原案的なものだったりとか、あとは2分間のパイロット映像だったりとか、そういったものは作っていて、今、要するに資金を集めるための準備をしているっていう感じですね。なので、まあ一応こう現段階での物語ってものは、もう描き切ってはいるっていう、テキストとしては書いているっていう感じなんです、はい。

迫田

プロットとか脚本が長編釈分は今出来たかなっていう感じですか?

水江未来

そうですね。でもなんかどうもこれをそのままやると3時間40分とかになっちゃうらしくて、どうしようみたいな感じにはなってるんですけども。『西遊記』を今やるっていう考えた時に、『西遊記』って要するに天竺に行く話なんですが、三蔵法師がお経を貰うために行くと。で大乗仏教なんですが、大乗仏教ってのは内容を理解してなくても、お経唱えていれば、オッケーっていう。まあ簡単に説明すると。

要するにその三蔵法師の住んでいる都っていうのがもうこんなもう堕落をしてしまってというか、そのそこに居る人達を救済するためには、大乗仏教のお経がないといけないっていう。まあそれで取りに行くっていう話ですけれども。天竺というのは。今で言うインドで、今インドに行くことは物語を描くときに、その『西遊記』がこう書かれたまあ時代と比べるとインドはなんかこう遠い土地ではないというか、今描く時にじゃあ天竺をどういう場所として描くべきかとか、そういったことを考えながら、作った物語って感じですね。なのでSF設定になっています。

迫田

やっぱここにも仏教というモチーフが現れているのですが、やっぱ自然と表現するものが何かしら仏教的な要素があって、お経もそうですし、その曼荼羅とかそういった記されたものもそうかもしれないですけど、なんかそういうものに通じるって言うのが水江さんの中であるんだろうなと感じるんですけども。

水江未来

なんかまあ『西遊記』が、仏教と元々があのつながっている関わりのすごく深い物語であるっていうところもあるんですけれども、僕が執筆した物語の中には、仏教的な視点だけじゃなくて、キリスト教的な側面もあったりとか、いわゆる宗教というものが、人がどういったことを考えて、こういったものが形成されていったかとかそういったことを考えていく中で自分なりの人間がどうやって生きていくべきなのかみたいなことを書いてます。

ちょっと宮崎駿監督の新作の映画みたいなこと言っちゃいましたけど、どう生きていくのかとか、世界をどう捉えるのかとか、そういったことを、描きたいなぁっていうふうに思っていて、まあ、その中で要素として仏教的なものとキリスト教的なものとか、その他のいろいろなその考え方とか、そういったものもまあ登場してくるみたいな感じですかね。まあ、最終的にはそのいずれでもない答えみたいなことを自分なりには考えて作っていったみたいなところはあるかなと思います。

迫田

なるほどなぁ。先ほどちらっと言われてましたけど、そういったプロットがありながら、それが様々な視点から描かれるので、やっぱり尺も長くなってるっていうところなんですか?

水江未来

そうですね。キャラクターの数がどんどん増えていくんですね。『西遊記』は三蔵法師がいて、三蔵法師が乗っている白い馬がいて、孫悟空と沙悟浄と猪八戒がいる。まあ、そのメンバーですけど、だんだん後半にいくにつれて僕が描いている『水江西遊記』では人数がめちゃくちゃ増えていくんですよ。1つの集団、1つのキャラバンになっていく、新しい集団を作っていくみたいな、そういった部分があって、どうしてもそこで物語がどんどん増幅していくような形になっていってしまっているっていうのがあるんですね。

迫田

表現の仕方とか、アニメーションの制作の手法みたいな具体的な話になっちゃう話なんですけど、それはどういう形になるんですか?例えば僕、Tempalayさんのミュージックビデオの「あびばのんのん」すごい好きでして、あれも一つのノンナラティブでエクスペリメンタルであるというものでそういった映像手法を用いてなるべくナラティブ側というか、ストーリーテリングの型にあてはめた表現の 1つかなと思うんですけど。 『水江西遊記』がどのような表現で描かれるとかが気になっております。

水江未来

うん、そうですね。なんかミュージックビデオの中に少しずつ、いずれ長編をやるっていうことを頭には入れながら、作ってるものが多いかなっていう感じがあるんですよね。ミュージックビデオの中でやってる演出は、いずれ長編の中でやりたいなと思ってることを少しずつ実験してる部分はあったりしますね。まあ抽象的な表現を、今までは抽象アニメーションっていうところでやってきましたけど、それを長編の中の演出として、自分がやってきた長編的なものを抽象的なものをどうやって入れるかっていうのをこう考えて、ええやろうと思ってます。例えば、なんかその孫悟空の妖術だったり変身したりだとか、そういったところはそうですけど、あと結構、地形が変わっていくような感じの描写とかあるんですよね。

『西遊記』の原作って、1行で500年経っちゃたりするんですよ。それですごいのが原作のその『西遊記』を読んでると、孫悟空は觔斗雲に乗って2回ぐらい一旦天竺行ってますからね。

迫田

ああ、もう、先駆けて行っちゃってるんですね。

水江未来

そうなんですよ、だから悟空1人だったらあっという間に着く、余裕で行けるんですよ。あの話は三蔵法師が人間ですごく弱い存在でそれを守りながら行くからすごく時間かかってしまう、その試練を受けなければいけないっていうのが『西遊記』の物語としてはあって、108の苦難を乗り越えるっていうのがあるんですね。

『西遊記』の最後、すごく面白いのが天竺にお経貰って、帰り道に大きな川を渡るんですけれども、亀の上に乗るんだったっけな、それで、107の苦難しか受けてなかったってことが判明するんですよ。で、まあ、天上界の人たちが、「ああ、あいつら107しか苦難うけてない、あと1個忘れてた」みたいなになって、108個目がその亀から落っこちて水の中に落ちるっていう。最後の川に落ちるっていうので物語が終わるっていう終わりがとてもおかしいんですよね。

でなんかやっぱりそういう原作の魅力ってのはあって。なんかそういったこう縦横無尽な感じだったり、奇想天外な感じっていうのはすごくあるのが『西遊記』なので、そういったものを自分がやってきた抽象の表現で演出すると面白そうだなみたいな、そういう感じでこの原作を選んでたっていうのはありますね。