この記事は、前の記事「大Webtoon時代を揺るがした異端児のマンガ」HELLPER論前編-Road to Webtoon#4のつづきを書いています。 今この文章を読んでいる人の中で、韓国のWebtoonを原文で読んでいる人はいないだろうか。 もしいるとすれば、コメント欄に出てくる「ある特徴」に気づいたかもしれない。 (大体人気作品でよく見られがちだが)どのジャンル、どの作品を読んでいても下のコメントは必ず出てくる。 「今日の連載分少なくない?」 筆者はいつもこのコメントに疑問を抱いていた。 不思議なことに、彼らがいう「連載分」は実質的なコマの数とは関係がない。 むしろ普段より多いコマ数であるにもかかわらず、「なんか今日は少ないんだよね~」という文句のコメントが常に出てくる。あくまでも個人差だと理解すればいいと思いつつも、筆者はそこに「読者と作者の間で、どうしても縮められない間隔」が存在しているのではないかと、疑ってしまう。 必ずとは言わなくとも、ものを作る側とものを消費する(読む)側には乖離が生じやすい。単純に作者の意図が読者に届かないということ以外にも、こうして分量の認識が違うというようなことすら、頻繁に生じてくる。そして、今回の話はこれにかなり近いと筆者は思っている。 #4に続き、シーズンを分けて連載を続けてきた『HELLPER』は絵柄を含め、色々な変化を試みていた。シーズン②が急に18禁になったことも、その変化の一環として受け取ることもできよう。しかし、その変化はファンの間で両極的な反応を生み出し、コメント欄はどんどん賛否両論の場と化していった。 読者と作者の間で生まれた些細なズレが、果たしてどういう結果をもたらしたのか。今日はその話を取り上げていきたい。 どんどん高まる不満の声:アンチを笑いにする作家 大体9.9を維持していたシーズン①と比べて、 最低2.0まで落ちてしまったシーズン②の様子。 今更なのかもしれないが、ここでHELLPERのシーズンについて補足しておこう。 13年間の連載歴を誇るHELLPERは、2011年度から4年間続いたシーズン①「MADMAN」連載を終えた後、2016年から約8年間シーズン②「KILLBEROS」を連載した。同じ作品のことではあるが、シーズン①とシーズン②の評価にだいぶ差があるとこだけは注目してもらいたい。 この連載の前編で説明した内容は、当然ながら好評が続いていたシーズン①「MADMAN」に限られた話である。 シーズン②「KILLBEROS」も連載当初は評判だったが、2年後の2018年からどんどん作品の問題点を指摘するアンチコメントが増えていった。(18禁にもかかわらず)過激な表現、カメオキャラとブランドの広告が多すぎるという問題、時事問題を取り扱いすぎるという問題など、シーズン①で流入されたファンの間で指摘の声がしばしばあげられたのである。 コメントを読んでいなかったのは、コミュニケーションをしたくないからではなく、コメントに影響されて自分が意図したとおりのマンガをお見せできないのが心配なだけでした。(著者訳) -SAKK、休載の告知(20.10.20) 当時のことに対してSAKKは終始一貫、自らの企画意図を保ちたいという理由で、コメントを読んでいなかったと述べている。しかしそれはあくまでも表面上の話で、漫画の中ではアンチコメントを言ってくるキャラをボコボコにするシーンも描いていた。少し幼い対応かもしれないが、そうすることで作家は遠回しにアンチの意見を否定してきたと捉えられる。 当然ながら、その作家の行動をひたすら楽しく見ていられるアンチは恐らく多くはいないだろう。意見の反映どころか、漫画の中で笑いものにされていることに激怒したアンチ読者一部は、どんどん反発の声をあげていった。 Webtoon界を揺るがした247話:場外乱闘のはじまり 『HELLPER』のファンコミュニティーであるDcinsideのHELLPERマイナーギャラリーで、ある読者は「表現の自由を通して犯罪の描写が当為性を認められるには、犯罪の残酷性を知らせるべきだと思っている。今の作者が何を言いたいのかよくわからない」と鋭く批判した。女性と社会的弱者に対する犯罪の描写や性的な表現などが許容範囲を超えたという指摘として解釈できる。こういう疑惑が燎原の火の如く燃え広がったのは、今月の8日『HELLPER』の先読みで247話が公開されてからだ。当時の連載分には老女である「ピバダ」が髪の毛が全部抜けた上に裸で拘束され、薬物が注射される拷問の描写が描かれていた。 -「拘束拷問」のシーン、無料の連載分には削除されるか…公共の敵となった『HELLPER』. イートゥデー. 2020年9月14日 結局、問題はシーズン②の247話が公開された時点で爆発した。HELLPERの読者なら誰しもショックを受けたその内容によって、既存のアンチはもちろん、作品と作家を擁護していたファンの読者ですら背を向けたのである。 247話のコメント欄。「精神に問題がありそうだ」「薬でもやってるのか」との、批判のコメントが寄せられている。 ここで問題の内容を知らない人のために説明しておく。上記の記事にも説明している通り「おばあちゃんのキャラを薬物で拷問する」というシーンが、247話には確かに描かれていた。 韓国社会がどれだけ老人を大事に思うか、という話はさておき、そのシーンの主人公である「ピバダ」が、作品全体を通して一番人気のあったキャラだったことに注目してもらいたい。つまり、10年以上連載を続けてきて、今まで一番人気だったメインキャラが急にリタイア、しかもあり得ない形でつぶされたことに読者たちは怒りを示したのだ。この事件の始まりは単にそういう騒ぎに過ぎなかったと、筆者は主張する。 しかし、真の問題はその次に起きた。 作家の蛮行を見るに見かねたHELLPERマイナーギャラリーの会員たちが自らツイッターとマスコミにHELLPERの女性嫌悪要素を共有して公論化させた事態。 DCインサイドの会員たちは普段の性向と違ってフェミニストたちを応援し、むしろ積極的に資料を提供するなど支援に乗り出した。(著者訳)‐当時事件に対して、ギャラリーのユーザーが作成した説明文 247話が公開されて間もなく、今まで作品に問題提議をしてきた一部の勢力「HELLPERマイナーギャラリー」ユーザーたちによる公論化が始まったのだ。 今まで指摘してきた作品の要素を「作者の蛮行」として命名したユーザーたちが、問題の247話で注目が集まったことをきっかけに、作者が女性嫌悪を描いているとフェミニズム団体に訴えかけたのである。彼らは247話の老人拷問のシーンを含め、作品の中で描かれている性的描写、レイプの描写などを資料としてまとめ、公論化のためにネット上で資料を広めていった。 ここで注目してほしいのは彼らの性向を語っている一文章。自ら述べているように、彼らは普段フェミニズムを支持しないにもかかわらず、「作品に変化を求めるためにフェミニズム団体と連帯した」と公言※している。 彼らの意図がどうであれ、その結果は大きな反響を及ぼしたことに違いない。いわゆる場外乱闘の始まりなのである。 性差別・フェミニズムのテーマをよく取り扱うメディア『女性新聞』では、「18禁だからといって性搾取・レイプなどの表現が許されるのか」と厳しい目線の記事を発表し、その指摘に賛同するSNS上のフェミニズム勢力も #Webtoon内の_女性嫌悪を_やめよう などのハッシュタグをつけて議論を広めていった。 炎上が深まるにつれて、批判の声は連載先のNAVER WEBTOONに辿り着く。事件の深刻さに気付いたNAVER WEBTOON側は「激しい表現に関しては編集の段階で作家に修正の意見を伝えている」といいつつ、「これからガイドラインをもっと繊細に補っていきたい」という旨を発表した。 運営側まで広まった炎上:検閲強化につながる 上記のNAVER WEBTOON側の発言はだいぶ重い発言に違いなかった。 以前にももちろん、起こった事件に対応してNAVER
「大Webtoon時代を揺るがした異端児のマンガ」HELLPER論前編-Road to Webtoon#4
時はまた遡って2011年度の夏。中学生になった筆者はいつもの通りWebtoon好きのオタクだった。 いや、むしろその時期の自分こそ「人生でもっともWebtoonが好き」だったのかもしれない。 手のひらくらいあったちっちゃいタブレット画面上で「どこでも、いつでも漫画が読める」という感覚は、幼い自分を含めて多くの中高生を魅了させるに足るものだった。10代にスマホが普及され始まった2010年度以来、指先でスクロールして読める縦読み漫画、すなわち「Webtoonの体験」はあり得ないスピードで我々の生活に浸透してきたのだ。ゆえに当時中学生だった筆者からするとあの時期はもう大海賊時代、いや、大Webtoon時代の始まり、だといっても良いくらい。 そしてWebtoon読者に中高生がたくさん流入されたという現象が、当時の人気作品の並びにも影響を及ぼし始めた。それで現れたのが学園モノの台頭。ジャンルは問わないが、主人公がともかく中高生であることに何らかのこだわりを感じているような作品が次々と出てくる。 『ゴット・オブ・ハイスクール』、『千年の九尾』、『オレンジマーマレード』、『ファッション王』、『高3が家出した』、『こんなヒーローはイヤ!』… まさに2011年度に連載を始めた作品を見ていると、なにげなく思い浮かぶこと。色はそれぞれ違う作品の中身に、主人公だけ中高生に切り替えたという感想が突き出てしまう。 相当生意気な考え方かもしれないが、Webtoonに対して謎のこだわりを抱えていた思春期の自分は、その時代の流れというものに飽きれたのかもしれない。 突然現れた「異端児」のWebtoon 『HELLPER』(2011) 「やっぱりはやっぱりやっぱりだな」 都市を守るガードトライブのリーダー「ジャン・グァンナム」。彼が謎の交通事故で亡くなった後、幽明から広がる感性アクションファンタジー漫画。(著者訳) -『HELLPER』シーズン①「MADMAN」の説明 その中で突然現れた作品があった。どこか既視感を覚える当時のWebtoon界に、新しい「異端児」が。だからといってそんなに斬新でもなく、そんなに見慣れてもいないこの作品に筆者は何らかの違和感を覚えていた。 「ヤクザが育つ温室」とも呼ばれる、ガナ市出身の主人公ジャン・グァンナム。グァンナムは生まれ育った町をヤクザから守るために、地域の不良を集めてガードトライブ(自警団)の`キルべロス`を結成する。優れたリーダーシップで町を守っていた彼だが、不意の交通事故により死亡。死後、地獄行きを意味する黒いチケットが与えれたグァンナムは自らの運命に逆らおうとする。噂によると、黒いチケットを100枚集めることで天国に行けるか、もしくは転生ができるという。現世に残っている恋人の子供として転生するために、グァンナムは残り99枚のチケットを集めることを決心するが… シーズン①「MADMAN」のあらすじ 今見ても珍しい、個性豊かな絵柄。方言が混じってて多少読みづらいキャラのセリフ。しかも当時人気だった学園モノでもない、意外とゴリゴリの少年漫画の雰囲気を感じられる。少年漫画といえば『ノブレス』(2007)や『神の塔』(2010)が覇権を握っていたあの時期に、連載を始めた『HELLPER』には不幸にも当初、あまりいい反応を得られなかった。 ロマンは照れ臭い言葉となり、感性は中二病になってしまった。余裕は暇な人間しか持てないという。「情熱」という言葉がダサくなかった、あのころが懐かしい。 -『HELLPER』175話 連載開始から苦汁をなめていた『HELLPER』は、幸いにも4年間続いたシーズン①を成功的に終える。しかも最終話まですごい勢いでファンを増やしていった『HELLPER』は、上記の二作を追い詰め、最後に至っては連載曜日の覇権を握ってしまう。その人気は2年後にまた続き、再度連載を始めたシーズン②は成人向けだったにも関わらず堂々と連載曜日の人気ランキング一位まで登り詰めた。 筆者もどこかで見たような、それでもなんか馴染み薄いこのWebtoonのことが大好きだった。背景によって変わり続ける絵柄を含め、分かりづらいけど生々しいセリフの書き方、独特に見えてもちゃんと王道を歩む展開、年齢制限をギリギリまで試すような表現まで…簡潔に言って、上手く作り上げた構成にも関わらずどこかあやふやに見えてしまうWebtoonだったと、ここではつづめておきたい。 しかし何らかの誤解が生じる前にここで一点、皆さんに伝えたいことがある。これから説明していく『HELLPER』の「異端児」らしさは、単に当初の評価を覆して覇権を握ったという上記の話とはまた別のものとして取り扱うつもりだ。 『HELLPER』はどうやって売れる作品になったのか。もちろんそれも興味深い話題であるには違いない。しかし、これから語っていく『HELLPER』がWebtoon界に残した足跡はそういう数値の変化にとどまらないと、筆者は言い添えておきたい。何より『HELLPER』は、連載を始めた2011年度からシーズン②の連載を終えた今月に至るまで、Webtoon界に一番多くの変化をもたらした一作であることを忘れないように。 Webtoonの読み方からして、産業全般にかかわる検閲に至るまで… 果たして、Webtoon界に変化をもたらしたその「異端児」らしさとは。 既存のWebtoonの「読み方」に抜けていたもの:スクロール漫画の完成は読者の指先から 『HELLPER』が最初、注目を集めた要素は意外とその「読み方」にあった。 「Webtoonはそもそも縦読みではなかった。」今までの記事を読んできた皆さんは何度もこの文章を目にしたはずだ。 「単純にコマを縦に並べただけの漫画」に縦読みの理由を示した『強いやつ』(2008)から、Webtoonの読者に「デジタルで漫画を読むという自覚」をもたらしたホランの『オクス駅の幽霊』(2011)に至るまで。 その二作品すらついに見逃してしまったことに『HELLPER』は突然、ある疑問を投げかけてきた。 それは、あくまでも読む側がコントロールを握っているWebtoonの読み方に対して、「ここはもっと早く・ゆっくりスクロールを流してもらえませんか?」と堂々と言いかけてくるようなものだった。 限られているWebtoonのスペースの中、一見すると意味のないコマが続く。それは作者が残した「※スクロール:はやく▼」を目にする途端、既存のWebtoonとはまた違う感覚をもたらす一つの装置と化するのだ。 実際スクロールのスピードを示す一言がどれだけ作品の質の向上に貢献したかは不明なものの、それを目にした読者の頭にはたぶん今まで気づいてなかった感覚が芽生えてしまうのであろう。普段自然に受け止めていた読み方の要素。すなわち我々は、いやでもWebtoonを読む「自らのリズム」に向き合ってしまうのだ。 このシーンはより早く、このシーンはもっとゆっくり。 それを意識することで読者の視野には各々の差が生じてくる。普段コマをじっくりと観察していた読者は読んでるシーンの緊迫さと迫力を体験する一方、ついついとスクロールを流していた読者はかつて見逃してしまった細かいところに気づく。 スクロール漫画の完成は読者の指先から(著者訳) -SAKK(第10話、作者の一言より) もちろんこういう作家の一言に対して、「余計なお世話」だと指摘する声も当然ありうるわけだ。 しかしSAKKの一言の通り、この発想はおそらくパラパラの横読み漫画上だとたどり着かなかった、縦読みのWebtoonならでは意識上で生み出されている。ゆえに確か、一見すると冗談にしか見えないこの一言の行く先は、ちゃんとスクロール漫画の「完成」に向けて書かれていたと、筆者は評価しておきたい。 漫画に限らないWebtoon:音楽からファッションに至るまで 他にも『HELLPER』といえば思い浮かぶ特徴がある。それは作家のSAKKが、『HELLPER』を通して他のジャンルとよくコラボを行うということ。 例えばWebtoonに入るBGM。Road to Webtoonの第2話で説明したように、ホランという作家の登場以来、Webtoon内にBGMをつけることはどんどん一般化していた。ゆえにBGMの機能そのものはさほど珍しくなかったものの、『HELLPER』はその中でも載せる曲のユニークさで評価されていた。 この曲の選定については、SAKK本人が音楽業界に顔が広いのか、知り合いのプロデューサーから直接曲をもらって作品に載せたと知られている。そのプロデューサーの中には韓国のヒップホップ界で有名な人も混じっていた。(例えばLoptimistとか)『HELLPER』がやたら韓国のヒップホップシーンと関わりを持っていることも、その影響なのかもしれない。 その一例が上に曲を載せているC JAMMのケース。彼はグァンナムのセリフ「やっぱりはやっぱりやっぱりだな」をオマージュして曲を出すほど、『HELLPER』のファンであることを公言していた。その『HELLPER』に対する強い思いはSAKK本人も承知の上、C JAMMのカメオキャラクターを作品内に登場させることすらあった。 こういう流れは作品内でどんどん広まっていき、のちには作品と関りのない有名人をカメオとして出演させたのではないかという疑惑を生み出していった。例えば、アイドルであるBTSのRMとWINNERのソン・ミンホをパロディしたような「ジャップモン」、「マイナー」というキャラが出てくるとか。どう見ても韓国の有名アーティストのIUをモチーフにしているような「イ・ジグム*」というキャラも出てくる。ゆえに作品を読んでいる読者からすると、「私が知っている有名人がこんなキャラになっていて面白い」とか「関係のない人を勝手に費やしている気がして不快だ」という反応が生まれてくるわけだ。 *IUはSNSやコンテンツなどで自らを「イ・ジグム」と称することが多い。 有名人をカメオとして出演させることについて、アイドルのファンから怒りを示しているという記事の一部。(引用:https://www.busan.com/view/section/view.php?code=2020091317290798490)
松浦直紀の旅 編集後記
今回はアニメーション監督の松浦さんとの収録を行った。その中での会話からその創作への情熱と哲学が深く伝わってきた。今回は、彼の歩んできた歴史とその中で培われた考えた方、そして自主制作作品『火づくり』の背景や制作過程を更に掘り下げてみたい。簡単な章立てにしてトピックを分けて話したい。 幼少期からの創作への情熱と影響 松浦さんの創作活動の原点には、幼少期からの多様な影響が色濃く反映されている。彼の漫画への初めての熱中は、藤子・F・不二雄の『ドラえもん』に始まり、『ドラゴンボール』や『アキラ』、さらには『寄生獣』など、数多くの作品から影響を受けてきた。これらの作品は、松浦さんの感性を育み、創作のエネルギー源となった。 特に、『ドラえもん』は松浦さんにとって初めての漫画体験であり、ストーリーテリングやキャラクター作りにおいて強い影響を与えた。『アキラ』の「暴力的で美しい」というキャッチコピーに惹かれたエピソードは、松浦さんの創作哲学の一端を垣間見せている。こういった漫画体験が礎になって作られている彼の作品には、単純な勧善懲悪ではなく、複雑な人間の感情や状況を描くことに価値を見出す姿勢が反映されていると感じるのにも納得する。 創作哲学と人生観 松浦さんは、幼少期の「お腹の中の小人さん」や「サンタクロース」などの原体験から、社会の暗黙の了解についての気づきを得たという。これらのエピソードは、松浦さんが現実とフィクションの境界に対して敏感であり、その曖昧さを作品に反映させることが多いことを示している。彼の作品がただのエンターテインメントではなく、深い哲学的な問いかけを含んでいる理由がここにあると感じたエピソードであった。 音楽と映像のシナジー 松浦さんの作品において、音楽は重要な役割を果たしている。『AKIRA』における芸能山城組の音楽や、兄蔵さんとの出会いといったエピソードからも、音楽が彼の創作における大きなインスピレーション源であることがわかる。押井守監督の「映画の半分は音楽だ」という言葉を引用しながら、松浦さんは音楽と映像のシナジーを強調している。彼の作品における音楽の選び方や使い方は、単なる背景音ではなく、物語の一部として機能しているのだと感じる。 松浦さんと今敏監督の邂逅 アニメーション監督の松浦さんが振り返る今敏監督との出会いは、彼のキャリアに大きな影響を与えた瞬間であるのだと改めて感じることができた。特に印象深かったのは、『ホッタラケの島』のチラシを見せた際、今敏監督が「日本のアニメが培ってきたものが何も生かされてねえよ」という言葉を放った瞬間である。この一言は、松浦さんにとって大きな衝撃となり、その後のキャリア形成において重要な示唆を与えたと考えられる。 今敏監督の言葉には、彼自身のアニメーションに対する深い洞察と批評が込められていた。松浦さんがその場で感じたのは、今敏監督が感じていた単なる技術的な指摘を超えた、日本のアニメーションの伝統とそれを継承しないことへの失望感であったのではないか。この指摘は、松浦さんにとってアニメを再評価のきっかけとなり、その後の作品制作において一層の努力を促すものであったと考えられる。 日本アニメの継承と革新 今敏監督の「日本のアニメが培ってきたものが何も生かされてねえよ」という言葉には、深い意味が込められている。日本のアニメーションは、長い歴史の中で独自の表現技法と美学を築き上げてきた。しかし、現代の技術進化の中で、これらの伝統的な技法が十分に生かされていないことへの批判でもある。 松浦さんもまた、この言葉を受けて自身の作品に対する反省と新たな挑戦を促されたと考えられる。彼の作品には、CG技術の導入と共に、伝統的なアニメーションの美学を融合させる試みが見られる。これは、単なる技術的進化に留まらず、日本アニメの精神を受け継ぎつつ、新しい表現を追求する姿勢を示している。 押井守監督とのエピソード 松浦さんが経験したもう一つの重要な出会いは、押井守監督との対話であった。特に、「フォトショップなんて何年も起動してねえよ」という言葉は、松浦さんにとって衝撃的なものであった。この言葉は、監督には技術だけでなく、ビジョンやコミュニケーション能力が重要であることを示している。 また、「やりたいことは次にとっておけばいいじゃない」という押井監督の言葉は、一度に全てを成し遂げようとせず、長期的な視野を持つことの大切さを教えている。これは、クリエイティブな仕事において、計画性と持続的な努力の重要性を示すものであり、示唆深い言葉であり、忍耐を感じる言葉だ。 押井監督の言葉は、松浦さんに制作進行としての視点を超えた広い視野を持つことの重要性を教えた。これは、彼の後のキャリアにおいて、制作進行としての経験を生かしつつ、監督としての独自のポジションを確立する手助けとなった。 これらの監督たちからの言葉を生で受けた松浦監督の経験は、若手クリエイターにとって非常に貴重な教訓となると思う。彼の歩んできた道のりは、技術や表現方法にとらわれず、自分自身のビジョンを追求し続けることの重要性を示している。また、様々な出会いや言葉から学び、それを自身の成長に繋げる姿勢は、多くのクリエイターにとって励みとなるだろう。 『火づくり』のテーマと背景 『火づくり』は大阪の堺市に実在する鋏鍛冶職人、佐助さんをモデルにした作品である。江戸時代末期から続く歴史ある鍛冶屋で、現在は五代目の平川康弘さんがその伝統を受け継いでいる。松浦さんがこのテーマに興味を持ったのは、友人の青池さんが佐助さんのサポートをしているという縁からであった。 鋏鍛冶の職人が作る鋏の切れ味に感動した松浦さんは、その技術と美しさをアニメーションで表現しようと決意した。切れ味の良い鋏を手にした瞬間に感じた感動は、視覚や聴覚だけでは捉えきれない、身体全体で感じるものであった。これをアニメーションでどのように表現するかが、『火づくり』の大きな挑戦の一つであった。 『火づくり』の中でも特に注目すべきは、鍛冶のシーンである。松浦さんは、このシーンを通じて職人技の緻密さと美しさを描くことに注力した。鋏を打つシーンの描写は、視覚的なリアリズムを追求しつつも、アニメーションならではの豊かな表現力を駆使している。熱さや硬さといった物質の質感を視覚と聴覚で伝えることで、観る者に身体全体で感じる感覚を呼び起こさせる。 制作過程とクラウドファンディング 『火づくり』の制作にはクラウドファンディングが大きな役割を果たした。松浦さんは、自主制作作品を支えるために、クラウドファンディングを通じて多くの支援者から資金を集めた。特に、音楽ユニットUQiYOの参加は、作品の質をさらに高める要因となった。 UQiYOのYuqiさんとのコラボレーションは、松浦さんが彼らの音楽に一目惚れしたことから始まった。彼らの楽曲『TWiLiGHT』に感銘を受けた松浦さんは、自ら彼らのライブに足を運び、直接アプローチした。この積極的な姿勢が、UQiYOとのコラボレーションを実現させ、作品に深い音楽的要素を加えることに成功した。 身体性と作品の関係 松浦さんが作品を通じて伝えたいと考えているのは、身体性の重要性である。現代社会では視覚や聴覚に偏りがちだが、身体全体で感じる感覚の価値を再認識することが重要だと考えている。鍛冶職人の仕事を通じて感じることができる感覚や、道具を手にした瞬間の重みや切れ味の感触は、視覚や聴覚だけでは捉えきれないものであり、それをアニメーションで表現することが『火づくり』の目的の一つである。 佐助さんの鋏と150年の歴史 松浦さんは、佐助さんの鋏を手にしたとき、その背後にある150年の歴史と職人たちの思いを感じたと語る。彼は、この歴史と伝統をアニメーションで表現することに大きな意義を見出し、現代の技術や文化が進化していく中で、長い歴史を持つ技術や伝統をどのように受け継ぎ、未来に伝えていくかが重要な課題であると考えた。 『火づくり』は、単なる職人技の記録にとどまらず、その背後にある歴史や文化、そしてそれを継承する人々の思いを描くことで、観る者に深い感動を与える作品になるだろうと感じる。 最後に 松浦さんの『火づくり』は、彼のアニメーション制作における哲学と情熱が詰まった作品である。クラウドファンディングを通じて多くの支援者と共に作り上げたこの作品は、視覚や聴覚を超えた身体全体で感じる感覚を大切にしている作品として仕上がった。 今後も松浦さんが新たな作品を通じて、伝統と革新を融合させながら、アニメーションの可能性を追求し続けることを期待していつつ、『火づくり』が多くの人々に観られ、その感動を共有する機会が増えることも願っている。 (執筆:迫田祐樹)